無理の巻
知識がもっとあればと思う。本当だろうか。知識に対して幻想を持っているのかもしれない。知識って何なのだろう。今日はその事をちょっとだけ考えてみたい
知識が欲しいと思う時は、自分に知識がない時だろう。正直、知識などゼロでイイと思う。またおかしな事を言いだしたなとお思いかもしれないが、知識ならゼロで良いように思う
これはまったくモノを知らないで良いというコトではない。それよりも知識と言うポジションに対して、疑わしいモノを感じてしまうだけ。知識というポジションはとても疑わしい
知識は覚えていく事だろう。覚えていく事だからこそ、忘れてしまうようにも思う。無理矢理覚えて、キレイサッパリ忘れてしまう。そんな特徴が知識にはあるように思う
こう考えてみて欲しい。外国のヒトが日本語を使いたいとした時、日本語は知識のポジションだろう。ところが私たち日本人にとって、日本語は知識のポジションとは言えない
普段使っている日本語は、なぜだか知識のポジションではなくなっている。とても不思議だけれど、自分が使っている日本語を知識だと意識する人がいるだろうか。正直いないと思う
日本人が日本語を知識だと認識するのは、小学生までだろう。これはどういうコトを表しているのだろう。これは知識が、ちょっと無理のあるモノに対して使える表現だというコトを表している
使いこなしているモノに関しては、もう知識の範囲から外れていると推測出来る。無理気味ならば、すっかり忘れてしまうのも当然だろう。知識のポジションのまま、放って置いてはイケないワケだ
知識のポジションにある以上、忘れてしまう危険性にいつでもさらされている。とするならば、知識を欲しがるというのもおかしなモノ。知識という一過性のモノで満足してしまう気持ちは、危険のように思う
知識の段階ではなく、日常使えるモノまで高める。高めると言いながら、感覚的には知識の方が上の感じがするのでタチが悪い。日常使いの方が、何倍も上の段階
知識で満足してはいけない。知識はあくまで仮置きの状態。そのままでは自然と消えて無くなってしまう。確認すべきは、知識を越え日常になっているか。日常になってないなら、そこまで高めたい。知識では消えて無くなってしまうから
2007年11月18日〜24日までの週間トップを発表します!1位 べんり 2位 ばらんす 3位 のりものでした。なるほど、電気が時間を食ってるのか。結構衝撃的で、的を射た内容だよね