全員参加の巻
学校か会社か。そこを離れると、存在自体も社会から抹殺されてしまう。抹殺というのは大げさだけど、それに近いモノがある。何とかならないものか
定年で会社を辞めた段階から、パッと自由になったとして、何もやるコトがない。休めるのは良いだろうけど、毎日が休みというのも困りものだろう。何とかならないものか
そこで考えてみる。どうすればイイのかを。何をして、どうすればイイのかを。結構考えた、あ〜でもないこうでもない。そうしたら出て来た。定年後は、もう一度学校に入れば良いんだと
学校と行っても、今ある学校ではない。今までに存在しない概念の学校。その学校にみんな入る。そうすれば、ずっと所属していられる
学校の名は人生学校。人生の学校だから、定年退職後の人が入ってもおかしくはない。いや、定年退職後の人は、人生学校に専念出来るというコトだけだろう。人生学校は、定年退職後の人に限定されるものではない
単純に、生まれたら入学。死んだら卒業で良いだろう。人生学校は、生きているうちはみんなが入っていると考える。これは日本に限ったものでもないだろう。概念的には、全人類が入っている学校
さて、その学校で何をするか。実際子供たちは既存の学校に通っているし、社会人は仕事や家事をしている。その合間をこの人生学校の活動に当てる事になるだろう
定年退職後の人は、この学校でいろんな活動をするべきだろう。もちろん体力に合わせてのコト。自分に出来る事を、いろんなカタチでやっていくべきだろう
それは地域の活動かもしれないし、福祉的な事かもしれない。趣味かもしれないし、人に助けて貰う事かもしれない。つまり日常に今まであった事だろう
今まであったのだから、今まで通りでイイようにも思う。確かにそうとも言えるかもしれない。ただ、人生学校というカタチの方が、所属感がある
この所属感というのがとても大切。なぜなら、所属してない存在は、疎外感に襲われてしまうから。所属していれば安心感がある
もしも所属を離れても、人生学校には入っている。そう思うだけで安心感は得られるだろう。企業や学校はかなり制約があるもの。そこから疎外される事も珍しくないだろう
そんな中で、人生学校は生きていればみんな入っているコトになる。つまり疎外はあり得ない。この疎外がないというのが重要だろう。どんな状態であれ、人生学校には入っている意味は大きい
安心感にありながら、みんな生徒でもある。みんな生徒だから、未熟でも仕方ないし、未熟なままで良いわけでもない。あくまでも成長途中というコトで、人生においていつまでも成長していくカタチになるだろう
人生学校で、いろんな絶望が起こるだろうけれど、そこには先輩がいる。先輩は、年齢ではなく経験をどれだけしたかになるだろう。経験者は先輩で、絶望の回避法を知っている先生にもなるだろう
人生学校では、誰もが先生になりうるとも言える。誰もが先生で、誰もが生徒。それが人生学校。その人生学校を作れない物かと、今思っている。思っているだけではなく、実際に行動していくつもりでもある。さてさて、どうなるコトやら。どこまで出来るか分からないけど、やっていこう