多分分かる世の中の事

続・どうぐ

見下すの巻

今日は昨日の解答をするパターンなのです。なので、昨日のブログを見ていない人はこちら→どうぐ←を見て下さい。


<道具は、○○。見下す対象ではなく、○○して○するべき存在。それが出来るなら、その人の○○は大きい>

昨日のブログでは、自分の中に見下しても良い物が存在し、それが全ての問題の原因ではないかという所まで書いた。今日はその続きであり、解答編となる。さて、どんな答えが出てくるのだろう。せんびき・・・・・・・・・・

線引きする。見下してはイケないモノと、見下すモノを線引きする。おそらくヒトに対しては、たとえ見下したとしても罪悪感が残る。罪悪感があるならば、見下してはイケないモノとして認識している。「ヒトには罪悪感があるけど、それ以外にはどうだろうね。」どうぶつ・・・・・・・・・・・・

他の動物。見下す対象として、人間以外の他の動物がある。これはヒトそれぞれだと思うが、人間は人間以外の動物を見下す傾向にある。ただ、見下したとしてもホ乳類に対しては罪悪感はある程度感じるようにも思う。「ホ乳類だと近いから、見下してしまっても罪悪感が残るね。」どうぐ・・・・・・・・・・・・・・

使う道具。では、人間が使う道具ではどうだろう。道具は当然生命ではない。壊れればまた新しいモノを買えばいい。この道具に対しては、当然のように見下しているようにも思う。「道具だからね、自分の自由にしても良い。見下すのも当然でしょ。」しょゆう・・・・・・・・・

所有物。命ではないし、所有物だし。線引きは、生命かどうかと所有物かどうか。これによってなされる。見下すかどうかの境界線があり、道具などは見下しても許される方になる。「道具なんだから、見下すも何もそんなのは当たり前。見下すのを許されてるのは当然じゃないの。」たいしょう・・・・・・・・・・

対象が向けられる。人間にもその対象が向けられる。見下すという行為が、道具だけでなく人間にも向けられる。人間も道具化されて、処理してしまう。「表向きは出さないけど、人間も道具のように使いされにされる事はあるね。」おなじ・・・・・・・・・・・・

同じ要素。結局見下すというコトで、同じ要素が存在する。その対象が物か人間かの違いだけで、道具のように使われる人間自体も、道具を見下している。見下す行為は、どの立場のヒトもやっている以上、根にあるモノは同じ。「道具を見下しているヒトは、上の立場になって人間を道具のように扱ってしまう危険があるのかも。人間を道具のように扱うのは悪いけど、その人の事を本当に悪く言えるかは疑問?だって、自分にも同じ要素があるんだからね。」しごと・・・・・・・・・

仕事をしている。道具も仕事をしている。ヒトと一緒に道具も仕事をしているのだから、感謝されて良い存在。それを見下すというコト自体、考えの方向性がオカシイ。「物言わぬ道具を見下してしまうけど、確かに感謝しても良いっちゃ良いね。」いちろー・・・・・・・・・・・・・・・

イチロー選手。自分の使う道具を大切にする、イチロー選手。グラブやバットという、道具をとても大切にしているのをテレビで見た事がある。最高のパフォーマンスを発揮する為に、最高の状態に保ちたいのかもしれないが、それだけとも思えない。「一流のヒトは、商売道具を大切にするって言うけど、何かあるのかな。」ともに・・・・・・・・・・・

共に仕事をする。おそらく意識の中に、共に仕事をする同士という考え。同士であるならば、対等の関係。その中には感謝があり、愛情も存在する。道具という物言わぬ存在だからこそ、どう扱うかでその人の度量が分かるような気がする。「道具からしたら、それだけ大切にされたら嬉しいだろうね。」こころもち・・・・・・・・・・・・

心持ちの違い。見下すか感謝するかは、心持ちの違い。道具を大切にする人は、他のあらゆる事も大切にするように思う。他者との接し方は、弱い存在に対する態度で、一番分かるように思う。「強い者にはへつらって、弱い者にはふんぞり返るって、やってしまうけどみっともないよね。自分に突きつけられると辛いけど、心持ちが貧しいんだろうね。」わける・・・・・・・・・・・・・・

分けてみる。見下す人間と、感謝する人間に分けてみる。感謝する人間は、道具に対しても人間に対しても感謝し、見下したりはしない。逆に見下す人間は、表にこそ出さないがおそらく自分以外の者全てを見下したいと思っている。その違いで分けてみるといろいろ考えさせられる。「正直自分は見下す方の人間に入っちゃうんだけど、とってもちっぽけだなとも思えて、自分が恥ずかしいね。」なぞ・・・・・・・・・・・・・・

謎がある。何で感謝しないで、見下してしまうんだろうという謎。感謝した方がイイなら、見下すなど最初からしなければいい。何で人間は見下してしまうのだろう。「そうだよね。最初からそんな事しなきゃイイのに、そこは突き詰めたい所だよね。」こえる・・・・・・・・・・・・・・・

乗り越える。人間の文明は、乗り越えるコトによって発展してきた。文明が発展しない時は、周りは恐い存在ばかりだったハズ。その恐い存在を、見下すコトで乗り越えてきた。見下さなければ、文明の発展は無かったように思う。「文明の発展の裏には恐怖があり、それを乗り越えようといろんな工夫をして、それが文明になったのか。」たいだ・・・・・・・・・・

怠惰な行動。文明の発展には必要でも、見下すのを続ければ怠惰な行動になる。自分が絶対的に安全な立場にいて、自分より弱い相手を見下した所で、ナニかが発展するだろうか。答えは簡単で、何一つ発展しない。であるなら、見下す行為自体、結局怠惰な行動。「相手が強いなら良いけど、弱い相手に対して見下すのは、ダメダメじゃんって事か〜。う〜〜〜ん。」じぶん・・・・・・・・・・・

自分の姿。道具に対してどう接するかを見るだけで、自分の本当姿が分かる。見下すようなら、度量が小さく怠惰だというコト。見下し合いのような不幸のループは、その人間の度量の小ささと怠惰を表している。つまりは自分自身が自覚して、内面から変わらない限り不幸のループは続いてしまうというコト。結局自分が変わらなければいけないと言う事実に向き合わされる。そしてイチローってすげぇって事。記録を残すよりも、道具を大切にするその姿勢が、度量の大きさと献身さを表している。今日は自分の小ささを、再認識させられた事をまとめと代えさせて頂きたいと思います

道具は、同士。見下す対象ではなく、感謝して愛するべき存在。それが出来るなら、その人の度量は大きい

なるほどね。イチローってすごいんだね。しかもそれが記録なんかじゃなく、姿勢だったなんて。気づかないよねそんな事。その姿勢が素晴らしいんだったら、今まで気づかなかったけど身近でもすごいヒトいっぱい居そうだよね。しかも誰からも気づかれない。それこそ、見下されるような存在かもしれない。でもすごい、っていう。世の中の価値観て、何なんでしょうか。正直、全然ダメじゃんて感じです。多数派が、度量が小さい怠惰なヒトだからかもしれないですね。う〜ん、今のところ私もその中の一人です。あ〜〜〜情けない。それじゃ、明日の繋げましょう

哲学・思想

今日もこのブログをご覧頂きありがとうございます。今日は、他者に対する自分の姿勢についての内容でした。いろいろ書きましたが、今や過去は怠惰で度量が小さくても良いように思いますよ。問題はこれからです。私もこれから気をつけて、見下すような怠惰で度量の小さいコトはやめようと思います。どんなに弱い存在にも、感謝と愛を持って接していこうと。・・・・・・できるかな?ま、がんばります。はい!!それじゃ明日をお楽しみに〜〜〜〜〜〜! 

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