契約(けいやく)の巻
<不信は、契約。契約で縛り付けないと、不安でしょうがない。契約は信じてはいけない、なぜなら不信の塊だから>
世の中には契約書(けいやくしょ)という、とんでもなくめんどくさい存在がある。姑息(こそく)でインチキな物も多く、どうも日本人にはなじめない。なんでこんな物が存在してしまうのか。それを今日は考えてみる。しばる・・・・・・・・
人間を縛る。契約書がはたす役割は、人間を縛ること。縛られた通りに動かなければ、なんらかのバツを与えられる事になる。人間を縛り合う為に、契約は存在する。・縛るってそれだけで、めんどくさそうだよね。いいかげん・・・・・・・・・・
いい加減な人間。なんで縛らないといけないのかと言えば、人間がいい加減だから。その場その場で、考えが変わってしまう。その時でも有効になるように、契約書を使っている。・確かに口約束だと、言った言わないになるからね。しるす・・・・・・・・・・・・・・・
書面に記す。動かせないように、書面に記す。記しておけば、時間が経ってもそれは有効。いい加減であいまいな人間に対して、契約書で縛れば言い逃れ出来ない。・いい加減さを許さない為に、契約書があるんだね。こまごま・・・・・・・・・・・・
細々する。あらゆる人間の行為に対応する為に、契約書の内容は細々してしまう。これがめんどくささの原因。読むだけで大変になる。・読んで理解しないといけないから、頭がくらくらするよね。ふしん・・・・・・・・・・・・・
不信感。結局契約書が細々するほどに、不信感も強いというコト。信頼などゼロの関係と言ってイイ。不信感が強い程、細々決め込むカタチになる。・あらゆるコトを縛らないと、不安で不安で仕方ないんだね。あくよう・・・・・・・・・・
悪用する。細々するコトを悪用する。契約が細々するほどに、一般人はそこまで読み込まない。そんなモノを読んでいる時間がない。・時間がないし、面倒だからテキトーに流しちゃうよね。こそく・・・・・・・・・・・・
姑息なやり方。読まない事を見越して、自分達に都合の良いような内容を入れ込んでおく、姑息なやり方。契約書がある段階で、気をつけないとイケない。相手を信用してはイケない。・もともと契約書自体が、不信感の上に成り立っているからね。いぎりす・・・・・・・・・・・・・
イギリスアメリカ。だいたいイギリス人とアメリカ人は、キリストとお金しか信じない。というよりキリスト教自体が、神と人間との間に契約を結んでいる。・不信から出た契約を、神を信じる宗教が使っているのは不思議だね。ちがう・・・・・・・・・・
違う存在。違う存在同士が、約束をする場合には、確かに契約は必要かもしれない。違う存在同士は、ルールが違う。そのすりあわせは必要になる。・すりあわせる為の契約だったら、なんの問題もないけどね。ぶんか・・・・・・・・
多文化。アメリカは移民の国で、多文化が存在する。多文化はそれだけルールが多いというコト。その中では確かに、すり合わせはしないといけない。・必要なモノとして、契約書は確かに存在しているね。ふなれ・・・・・・・・・・・
不慣れな人。多文化でルールが違うとなると、契約に不慣れな人もいる。そのヒトたちに対しては、しっかりと説明し、納得した上で契約は結ばれないといけない。・そうなんだけど、実際は不慣れを利用して、だまくらかす奴らがいるんだよね。しんし・・・・・・・・・・・・
紳士の国。イギリスは紳士の国と言われるが、おそらく姑息なヤツが多いからだと思う。姑息なヤツが多すぎるので、あえて紳士という縛りを付けて行動を矯正(きょうせい)している。・矯正する思想があるってコトは、インチキな存在も多いってコト。かくご・・・・・・・・・・・・・
覚悟する。契約は覚悟すると言うコトかもしれない。相手を信用しすぎて、覚悟も無しに契約しては失敗するように思う。覚悟をして契約はする物。契約をしないという選択肢も、持っていなければいけないし、保留という選択肢も持っていなければいけない。あくまで契約は対等。ただ、だいたいの場合は一方が主導権を握っている。これがオカシイ。本来は双方、なぜなら対等だから。ただ、大勢の人と契約を結ぶネットなどでは、一方的に進めても良い。なぜなら契約にくわしい人がいる。インチキであれば、それなりの情報も流れてくる。本当に契約は厄介な物。少なくとも信頼してするモノではなく、不信の塊である事は、心に留めておかないといけない。というのを今日のまとめとしましょう
不信は、契約。契約で縛り付けないと、不安でしょうがない。契約は信じてはいけない、なぜなら不信の塊だから
そうか、不信の塊か。ユダヤ教やキリスト教は、なんで神と人間の契約なのか。契約が不信だとすると、オカシイよね。う〜〜ん。契約って本来約束だから、単純に約束だと思えばいいのかな。裏切ってはいけない約束。インチキなヤツは、契約では裏切らないけど、最初から相手を裏切って貶めようとしてるんだよね。ユダヤ教にしろキリスト教にしろ、そんな事は認めてないハズだけど、人間だからしょうがないのかな。契約が不信の塊から、信頼の塊になる本来の姿が、あるように思いますね。それが何かは、まだ何も見えていないのですが。そんな事を思いながら、明日に繋げましょう
明日は『クオリティー』というタイトルで、違いについて考えてみます。新ネタです。お楽しみに〜〜〜〜!!