バランスの巻
2006・6/22のブログ意味合いを拾い上げて、考えてみます
<靖国は、ご都合。遺族の純粋な想いは否定しないが、ご都合で神様にする靖国の考えだけはハッキリと否定したい>
この日のブログ意味合いを見ると、結構バランスが取れた内容になっている。過去のブログなので、結構ズケズケと書いていると思っていたが、違っていた。ほそく・・・・・・・・・・・
補足する。今の自分が見ても、配慮が伺える内容なので、今日は本当に補足程度になりそう。遺族側の人の想いなど、それなりに押さえられている。・家族を亡くした人の想いは、うかがい知れないほど深い悲しみだからね。とうじ・・・・・・・・・・・・・・・
大日本帝国当時。まるで自由は許されずに本音など言えないのが、大日本帝国当時。当時の『靖国で逢おう』が死んでいった人の本音かと言えば、それは怪しい。・本音ではなく、そう言う言葉しか許されてなかったんだね。いっしょ・・・・・・・・・・・
一緒に死のう。『靖国で逢おう』を別の言い方にするなら、「一緒に死のう」。靖国で逢う時は、生きて逢うとは思っていない。死は確定的だからこそ、『靖国で逢おう』となる。・生きてる人間が使う『靖国で逢おう』が、死を決意した言葉なのは悲しいね。いや・・・・・・・・・・・・・
死ぬのは嫌。本音が許されるなら、「死ぬのは嫌だ」「死にたくない」という言葉も出たと思う。ただ、当時それは許されない。その言葉の代わりが、「靖国で逢おう」。・まだ未来があったわけだから、死ぬのは嫌でしょ。よりわけ・・・・・・・・・・
選り分けられる。誰かの都合で選り分けられる。靖国にまつられているのは、誰かの都合で選り分けられた英霊達。いつでも政府側しか祀られない不思議。・結構偏っちゃってるねってコト。ぎゅうぎゅう・・・・・・・・・・・
ギュウギュウ詰め。246万人もの神様がギュウギュウ詰めで祀られている、靖国神社。ご都合で祀られてるので、随分多い神様になっている。・神様密度高いよね。おもい・・・・・・・・・・・・・・・
想いを受け止める。問題も多い靖国神社だけれど、家族を亡くした想いを受け止める役目も果たしている。それは否定出来ない。となると、それだけでも存在理由がある。同時に靖国を否定する、家族を亡くした人の想いも、受け止める必要がある。ご都合で、短い命を取られて、神様にしてあげるので許してね、てへペロと言われても、「ふざけんな!」と思うのも当然。いろんな想いが、渦巻いているのが靖国神社。肯定する人も、否定する人も、どちらも尊重したい。ただ、ご都合で祀る人を決める靖国神社の考え自体は、どうも腑に落ちない。純粋な気持ちとは思うコトが出来ず、それは死者を選り分ける間違った行為だと、私はハッキリ主張したい。というのを今日のまとめとしましょう
靖国は、ご都合。遺族の純粋な想いは否定しないが、ご都合で神様にする靖国の考えだけはハッキリと否定したい
いや〜、靖国神社って言うのは、ともかく歴史が浅い。大村益次郎が最初に提案したと言うけれど、彼はこんなご都合のカタチになった神社を想像していたのだろうか。神社と言うには、とても人間らしい狭い考えで成り立っている。批判ばかりになってしまうけれど、命と交換で神様にしてあげますって言う考えは、浅いし狭いとしか言いようがない。「靖国であおう」といって死んでいった人達が、もしも生きていたならどんな人生を送ったのか。それだけは、今の世代も考えなければイケないように思う。それでは、明日に繫ぎましょう
明日は、過去ブログを引っ張り出して、チマチマやるパッタ〜〜〜〜〜ン!!おっ楽しみにんにんに〜〜〜〜ん!!