信仰について考えるの巻
<刀は、すがりつく。攻撃と守りと、両方の働きをするのが刀。信仰までいくのは、守りの比重が大きいという現れ>
チャンバラといえば武士だよね。武士といって欠かせないのはそう、刀。刀がなかったら、ただのむさいおっさんになっちゃうから、イメージ台無し。実際武士にとっても、刀というのは特別なようで。魂・・・・・・・・・・・・
武士の魂。刀って武士の魂っていうほど、その存在は特別。命と同じように大切とされて、物を越えた存在になっていた。魂という表現はまさに物を越え、一つの生命体のようにまでなっている。生き死に・・・・・・・・・・・
確かに刀によって、生き死にが決まる。自分の身を守る物でもあり、敵に死を与える物でもある。いわば刀と武士自身は、一心同体でありそこに命までが関わっている。生き死にというのが重要なポイントのように思う。信仰・・・・・・・・・・・・・
それはまるで信仰。信仰というのは、依存の体質。刀を信じ、それに依存する。生き死にが掛かっている事を思えば、それも当然かもしれない。刀に命を預けてるといっても、言い過ぎではないだろう。銃・・・・・・・・・・・
銃では信仰までならない。生き死にを決めるという意味では、銃も同じ。ただ、銃という物は信仰の対象にまでならない不思議。これはどういうコトだろう。銃と刀と、同じ命を預けるモノのハズ。速度・・・・・・・・・・・・
銃と刀の違いは速度。刀であれば、眼で捉えるコトが出来て、体で反応も可能。ただ銃の弾はまるで反応が追いつかない。気づいた時には、撃たれていて避けようもない。速度が速すぎて、やられるがまま。攻守・・・・・・・・・・
刀は攻守。生きるも死ぬも、刀と共にある。攻守共に刀が役目を果たすので、命を預けられる。そこ行くと銃というのは、攻めだけで守りという面では、とても弱い。命を預けるには、守りが弱すぎる。守り・・・・・・・・・・・・・
信仰は守り。なぜ銃が信仰の対象にならないのかが、見えて来た。どうやら信仰というのは、守りの方に重点が置かれているらしい。守りの弱い銃が、信仰の対象にならないのも当然。武器・・・・・・・・・・・・・
刀は武器でありながら盾。大陸の盾を持つスタイルと違い、武士は盾を持たない。これはどういうコトかといえば、刀自体が盾の役割を担っていると言えるのではないか。相手の攻撃は、刀で防ぐのが武士のスタイル。すがりつく・・・・・・・・・・・・・・
刀にすがりつく。こうなると、そのまま信仰と言ってイイ。刀は武士にとって、すがりつく物でもある。当然武士はプライドの塊だから、そんなコトは認めないだろうが、そう考えると刀が信仰にまでなる理由も説明がつく。お守り・・・・・・・・・・
刀が武士にとってのお守り。生きるか死ぬか。特に死なない為には、刀が自分の身を守ってくれないといけない。もちろん兜や鎧も身を守ってくれるが、最前線で守ってくれるのは刀。最大のお守りは、刀であると言ってイイ。対象・・・・・・・・・
信仰の対象は、身を守ってくれるかどうか。刀は武器であり同時に、身を守ってくれる盾でもある。攻めと守りが同時に行われる珍しい道具と言ってイイ。どう猛な切れ味の陰に隠れて、身を守りすがりつく対象にもなっていた事実が分かった所で、締めます
刀は、すがりつく。攻撃と守りと、両方の働きをするのが刀。信仰までいくのは、守りの比重が大きいという現れ
そうか、刀って盾の代わりにもなっていたんだね。確かに武士って盾を持たないで戦う、珍しいスタイル。案外その事に気づいていなかったのも不思議。なんで盾を持たないのかなんて、疑問にも思わなかった。刀が盾の代わりになっていたとは、そしてその刀にすがりついていたとは。ちょっと格好悪いけど、やっぱり命は惜しいからしょうがないですよ、現実問題。うん。それじゃ明日
明日は『客観裁判』というタイトルで、適材について考えます。お楽しみに!!