愛というのは小っ恥ずかしいの巻
<身内感覚は、愛の本質。少しずつ身内の対象を増やしていけば、愛の本当の姿に出逢える。人生も楽になる>
歌とか詩とかでは、愛という表現がよく使われる。これ、作り物。作り物の中では、ホント安易に愛って言う言葉を使うんだけど、現実社会では結構使い辛いように思うね。限定的・・・・・・・・・・・・・・・・・
使うと限定的。不思議なんだけど、使おうとすると愛って限定的になってしまう気がする。ごく限られた対象にしか、向けられない。けど、そこになんか違和感を感じてしまうんだよね。コレはなんだろう。もっと大きい・・・・・・・・・・
愛自体は、もっと大きい。限定されないで、もっと大きい物だと思うし、もっと根本的な物でもあるような気がする。それをヒトが使おうとした途端、こぢんまりと限定的になる不思議。なぜ限られちゃうのかな。利用・・・・・・・・・・
利用しようとする。もしかして、愛というのは利用する物ではないのかもしれない。それを利用しようとするので、意味合いが違ってしまうのではないか。イメージとしては、大きな愛があって、そこから一部をとってきてしまう感じ。拝借・・・・・・・・・・・・・・
愛を拝借してしまう。愛という価値のある物があって、それを自分の都合の良いように、利用しようとする。元々拝借する物ではないので、限定的になってしまうのではないか。利用しようとする気持ちが、愛自体を狭くしているような気がする。本質・・・・・・・・・・・・・
どうすれば本質を保てるだろう。愛という表現は、小っ恥ずかしいし、限定的になってしまうし、使い勝手が良いとも言えない。もっと他の表現で、本質を保ちながら使い勝手が良いモノは無いだろうか。身内・・・・・・・・・・
身内感覚ならどうだろう。他人から、身内になる感覚。身内というモノ自体は、とても限定的だがそれが良いように思う。限定的であっても、限度があるワケじゃないから、身内をどんどん広げればいい。安心感・・・・・・・・・・・
独特の安心感。身内という感覚には、独特の安心感があって、こわばりをとってくれる。他人だと思えば、何をされるか分からず、緊張状態を保たなければならないが、身内であれば緩めても良い。従来・・・・・・・・・・
従来通り、愛として使っていた事も含まれる。身内という表現で、愛として利用していた事も、そのまま使うコトが出来る。相反する物ではなく、愛と身内はとてもちかしい存在。広げられる・・・・・・・・・・・・・・
身内も、考え次第でどれだけでも広げられる。身内に限度はなく、生命やその他の物質にまで、広げるコトも可能。これは愛の本質に近いモノがあり、愛という言葉を使うよりも、的確になる。言葉として使うなら、身内の方が適している。概念・・・・・・・・・・・・
概念としても、身内が良い。愛という仰々しい概念より、身内の方が身近で親しみが持てる。使う時に構える必要もないとくれば、身内の概念を持つ事をお勧めしたい。どれだけ多くの存在を身内と思えるか。身内が増えるほど、緊張が取れて、生きるコトが楽しくなる。それは間違いない。っていうのを結論として締めましょう
身内感覚は、愛の本質。少しずつ身内の対象を増やしていけば、愛の本当の姿に出逢える。人生も楽になる
そうか、愛って言う表現より、身内って考えた方が使い勝手が良いし、的確なのか。だったら、どんどん身内を使っていったらいいよね。あの人も身内、この人も身内、知らない人も身内。そうすりゃ、多少のコトがあっても許せるし、カリカリしないでも済むでしょう。他人だと思うと、結構苛立つ事も多くなるからね。身内だったら、相手の中に自分も存在する・・・・・・・そんなイメージだから許せるようになるワケね。そんなこんなで明日です
明日は『ダメージ』というタイトルで、痛みの共有について考えます。お楽しみに!!