賞というのは、なぜ存在するのか?
<先頭は、勇者。賞を与えるヒトも、逆風に立ち向かう覚悟が必要。二番手は、甘やかされた者>
世の中には、様々な賞というのが、存在する。有名なモノから、無名なモノまで数え上げたらキリがない。この賞について、掘り下げてみたいと思う。どうして賞が存在するのか。価値・・・・
賞を与えて、価値を作る。最初は全ての物が、価値という評価を貰えない。価値は認識されて、価値になる。世の中のにとって、価値ある物になる為には、みんなに認識されなければイケナイ。その方法の一つとして、賞が存在する。与える・・・・・・
賞を与えられるコトで、その存在は広まる。広まるほどに、認識される。その規模が大きいほど、価値も大きくなる。価値が無いとされたモノが、価値あるモノに変わる。未だ価値の無いモノ。それが賞によって、価値ある物となる。そんな働き。先頭・・・・・・
先頭の物は、価値無い運命。それに賞を与えるというのも、ある意味先頭。その賞を与える方も、シッカリとした哲学が要る。哲学があって、根拠があるので賞を与えられる。賞を与える方も、能力がいる。二番目・・・・・・
日本は、二番目に賞を与えることが多い。どっかで賞を貰った人に、賞を与える。これは後追いであり、そのモノを見ていない。価値を引き上げてもいない。何の根拠もない。尻馬に乗っているだけ。恥ずかしい・・・・・
これはとても恥ずかしい。賞を与える能力が無いコトを、示している。先頭ではなく、二番手。この二番手は、上辺だけ見ていれば出来る。何のリスクも背負わない。何の判断も出来ない。無能を地でいくならば、それで良いと思う。戦い・・・・・
結局先頭を切って、賞を与えるというのは、戦い。戦いというのは、リスクのある物。そして、それだけの意義がある物。それを分かって、先頭を切って賞を与えるコトが出来る。戦える者でなければ、最初に賞を与えることは出来ない。恐さ・・・・・
最初の者だけが知る恐さ・・・・。最初の者は、恐い。失敗するかもしれない、批判されるかもしれない。そんな逆風の中を行かないとイケない。それだけによく考える。よく考えるので、より相応しい者が選ばれる。目利き・・・・・
恐さの中で、目利きになっていく。自分の判断する基準も出来る。恐さやリスクを共有するので、先頭を切って賞を与えるヒトは、同志と言ってもイイかもしれない。本人と賞を与えるヒトは、同志。より強い結びつき。マヌケ・・・・・
そう考えると、益々二番手はマヌケになる。二番手で賞を贈るのは、野次馬でしかない。全くの観客。その程度の関係でしかない。まったくもってみっともない。でもそれが日本人なので、仕方がないように思う。日本人・・・・・・
さて、日本人はどうしてそうなのか。私も40年ほど日本に暮らす日本人だが、何でリスクをとらないのか。なんで、逆風を共に進もうとしないのか。何で恐さを乗り越えようとしないのだろうか。おそらく、二番手で賞を贈る人間は、適正が違う。経験がない・・・・・
おそらく戦った経験がない人間。その人間が、賞を贈るのでそうなる。自分で判断出来ない人間が、権限を持っている。日本で権限を持っているのは、自分で判断出来ない人間。そういう適正の人。それが日本の根源にある問題。身分・・・・・
おそらく身分制度。そして儒教の悪いトコロが出ている。身分制度も、儒教も上がダメになる制度。上を甘やかす制度。これがあるので、二番目に賞を贈るという事をしてしまう。適正として、判断出来ない人になってしまう。恐さから逃げた人達だと思う。賞・・・・・・・・・
賞というのは、恐さに立ち向かわないと、無理なのかもしれない。先頭の者は、賞を与える方も勇者なのかもしれない。価値というのは、勇者によって作られていく。そんなところかもしれない。それを今日の結論として、締めます
先頭は、勇者。賞を与えるヒトも、逆風に立ち向かう覚悟が必要。二番手は、甘やかされた者
そうか、二番目に賞を贈る人って、甘やかされて自分で判断出来なのか。戦えないワケね。そう考えると、いろんなコトが説明出来るね。そうやって、日本含めて韓国とか中国とかも出来てるのかもネ。アジアの問題だね。うん。そんなこんなで明日です
明日は『印』というタイトルで、失敗について考えます。お楽しみに!!