学と術という、言葉の縛りによって、何が変わるだろう
<学と術は、真逆。学は目的が曖昧だった為に、歪みきった。学を術に替えれば、根本から見直される>
学と術という言葉。同じ分野でも、どちらの言葉を選ぶかによって、意味合いがかなり違って来る。その違いを生み出している、要因は何か。それを掘り下げてみる。達成・・・・・・・
学は身につけると達成。学は身につけると、目的は達成される。術の場合は身につけても、それだけでは意味を持たない。学も本当は、それで目的が達成されてはいけないハズだが。現実には、それで成立してしまっている。使用・・・・・・・・
術の場合は、使用する事が目的。持っているだけでは、何の役にも立たない。使ってナンボ。そこが、学と術との圧倒的な違い。術は身につけて、その後使うコトがメイン。うまい下手・・・・・・・
さらに術というのは、身につけてもうまい下手がある。術というのは、身につけるのがスタートで、そこから更に先がある。使えたとしても、その道のりは長く、更なる上達を目指すモノ。学は、うまい下手が存在しない。その先・・・・・・・・
学というのは、身につけたらその先がない。また新たな世界に踏み出す事はあっても、覚えてしまえばそこで終わり。使いながら磨いていくモノでも無い。この学と術の違いは、どこから生まれてくるのか。授かる・・・・・・・・
学は、授かるモノ。そして術も、授かるモノ。この授かるという事においては、学も術も差はない。では、何が差になるのだろうか。どういう所で、この差は出来るのか。それを考えてみる。持っているだけ・・・・・・
術が持っているだけで、成立するモノだとするとどうなるだろう。術というのは、使って始めて意味を成す。それをあえて持っているだけで、意味があるとすればどうなるのか。持っているだけで出来るコトは?見せびらかす・・・・・・・・・
術を持っているコトで、意味を持たせるとすると、見せびらかすくらいしか思い当たらない。自分がこの術を持っていると、見せびらかせる行為。その行為には、違和感を感じる。この違和感は何だろうか。秘めるモノ・・・・・・・
術というのは、秘めるモノのような気がする。使う場所や、タイミングがなければ、仕舞っておくべきモノと。そんな気がする。秘めるモノと思えるのは、どうしてだろうか。不要・・・・・・・・
おそらく、術というのは特別であり、不要な存在。どこにでも存在して良いモノではなく、必要な時に必要な場所で存在すべきモノ。つまり普段は不要。不要であるモノを、見せびらかすのは危険。秘めるべきモノ。価値・・・・・・・・
更に術は、見せびらかせると価値が下がる。とても安っぽくなってしまう。術の価値を高めるのは、その結果。その術を使った後の結果で、その価値は決まる。術というのは、結果を出す為の手段。手段を見せびらかすのは、使い方を間違えている。目的化・・・・・・・・
では、なぜ学は身につけるコトが、目的化してしまったのか。身につけるだけで、意味を持ってしまったのか。学があるという言葉がある。この言葉を見ただけでも、学は見せびらかすモノに成り下がっている。最初から、そんなモノだったのだろうか。使う・・・・・・・・・
学というのは、術と違って使う所までの意味は含んでいない。術は使うモノだが、学というのは?何の為にと言う目的が、そもそも無い。将来の為にや、いずれ役に立つという、とても曖昧な目的を含んでいるだけ。歪んだ・・・・・・・
曖昧であるが為に、歪んでしまった。曖昧だから、成り下がってしまった。身につけて、ただ見せびらかせるだけの存在に。勿論、学ぶ者の全てがそうなってしまったワケではない。ただ、システムはそちらに行ってしまっている。利用・・・・・・・・
学びは、その曖昧さから、利用されてしまった。というより、ズレていってしまった。人はどうしようもないので、ついついズレていってしまう。術のように頑なでなければ、すぐにだらしない方に流れてしまう。なれの果て・・・・・・・・・
学が見せびらかしになってしまうのは、だらしない方向に行ってしまったなれの果て。もう一度、学というモノを、まともな方向に呼び戻さないといけない。であるならば、術に替えればいい。学と術は同じ分野で出来る。総入れ替え・・・・・・
全ての学を廃止して、術にすればいい。そうすれば、成り立たない事が沢山出てくる。成り立たない事というのは、ズレてしまった所。歪んでしまった所。学を術に替えれば、使うコトがメインになる。今まで使うなんて、思いもしないで成立していたモノも多いハズ。芯・・・・・・・
使うと言うコトが、芯になる。学というのが、フニャフニャだったのに対し、術になれば一本の芯が通る。身につけてから、使うまでが。さらには使えるようになってから、更なる上達を求めるようにもなる。終わって・・・・・・・
身につけて、終わりになってしまった学とは違う。術は、終わらない。学校は術校で良い。術は歪まない。術は見せびらかさない。術は終わりがない。おそらく、まるで別物に変わる。甘さが消え、より明確な意味を持つようになる。結果重視・・・・・・・・
結果重視の術に替える事で、途中で終わっていたモノの先が出てくる。補完されるべき、今まで無かったモノが見えてくる。要らないモノは、消え去っていく。なぜ要らないかと言えば、意味がない余計な物だから。虚栄心・・・・・・・
意味がないというのは、だらしない人間の中にある、虚栄心。歪ませていた、虚栄心などを満たす、見せびらかしは消え去る。より実戦的に、根本から洗い出されるでしょう。随分と、学というのは歪められていた事に気づくと思う。それを結論としたい。締めます
学と術は、真逆。学は目的が曖昧だった為に、歪みきった。学を術に替えれば、根本から見直される
そうか、学と術か。でも、術って言うのは、使うコトを考えすぎてるから、堅苦しい感じもある。今日は出来なかったけど、術になるとどんなマイナスがあるかも、今度洗い出す必要はあるのかもしれない。それはまた今度って事で。明日ですね
明日は『半分』ってタイトルで、この世の中について考えます。お楽しみ!!