才能ある人材は、どこに居るのか?
<住みやすい所は、多様。能力の多様さを知り、活かしてくれる。場に飢えている、まだ見ぬ能力者は多い>
能力あるヒトは、どこに居るのだろう。能力の居場所を考えてみたい。もしもサッカー選手だったら、サッカーの競技場にいる。サッカーチームにいる。これは当たり前のコト。サッカー選手なので、サッカーが出来る所に集まってくる。チカラを発揮・・・・・
最低限、チカラを発揮出来る場所に、集まってくる。場所が無かったり、場違いだったりすれば、能力を活かすコトが出来無い。となれば、能力あるヒトほど、そのチカラを発揮出来る場所を探す。認める・・・・・
さらに、そのチカラを認めて貰える場所に集まる。せっかくの能力があっても、他の所ばかり見て、一番の能力を見てくれないのでは、話にならない。ちゃんと、能力を見て、認めてくれるところに集まってくる。最初は・・・・・
場所が最初にあって、そこに人が集まる。人は移動が出来るので、住みやすいところに集まってくる。能力を認めてくれる所があれば、自然とそこに集まる。そこが生きられる場だから。邪魔・・・・・
能力があるヒトほど、その能力に邪魔をされる。能力に邪魔をされて、普通の生活というのは阻害されてしまう。それで、普通の生活が下手な人は多い。極端に能力があるヒトほど、生きづらい中で、生きている。利用・・・・・・
能力が活かせる場と認めてくれる人がいても、所属したのでは能力は活かせない。場はあくまで利用するモノ。場に気を使う必要もないし、運命を共にするモノでも無い。あくまでその一時を、一緒に活動するだけのモノ。割り切り・・・・・・
住みやすい場としては、そのくらい割り切る。能力を何に向けるべきか。割り切っておけば、何に向けるかを見失うコトはない。所属してしまうと、するべき事以外も負担しないといけないと思わせる。するべき事以外は、能力を発揮出来ない。つまり求められていないモノ。余計・・・・・
余計な事はしない方がイイ。余計な物では、能力が発揮出来無いハズ。もしも発揮出来たとしても、それはすべき事ではない。もしそれをするのであれば、一度辞めてリセット。リセットした上で、やる。場を利用するという観点からすると、能力以外のモノは、妥協の産物に過ぎない。生まれる・・・
妥協から生まれてくるモノは、求めたモノだろうか。必要なモノだろうか。そう考えると、所属はやはりマズイ。能力を活かせる場としては、不適切。やはり利用する場でなければ、場として相応しくない。利用する場が住みやすい場、能力を活かせる場。集まる・・・
能力が集まる場は、活かせて認められて、利用するところ。そこには、能力ある人が集まるし、活かせる事も出来る。どこからかかき集めなくても、自然と。能力・・・・・
能力は、一つではない。いろんな能力があり、多様なモノ。それを分かっているヒトが、認められる人。なんとなく世間で認められるからと、選ぶのは分かっていない証拠。そんな人が多い。何をして、どんな能力が必要か。その為の場が用意出来ているか。考えれば当然のコトばかり。難しい・・・・
当然のコトが一番難しい。裏を返せば、それだけ本当に住みやすい場は少ないというコト。なので住みやすい場を作れば、自然と能力あるヒトは集まってくる。それを今日の結論として、締めます
住みやすい所は、多様。能力の多様さを知り、活かしてくれる。場に飢えている、まだ見ぬ能力者は多い
そうか、まだ見ぬ能力者って多いのか。そうだよね。世間の評価って、実績だったり権威だったりが根拠になってるから、これからの人が入り込むスキマがない。結構これってモッタイナイと思うね。うん。まあ、そういう現状が改善される事を望みつつ、明日です。
明日は、『広がり』というタイトルで、豊かさの順番について考えます。お楽しみに!!