かいわ
というタイトルで、人以外の存在とする会話について、考えます
ライン
あるラインを越えると、モノとの会話が可能となる
会話とは、人と人でするモノ。人と、モノでする会話というのは、どんなだろうか。それは、いい加減でインチキだろうか。それから、人以外と会話出来るようになるラインとは、どこからだろう。それを探ってみたい
人と人が、言葉を交わすのが会話。言葉という音声を操れなければ、会話は成立しない。そう考えるのは当然のコト。モノは、言葉を発するコトは出来無い。とするなら、人以外とは、会話は成立しないと考えるのが普通。でも、人以外の会話があるとするなら、それはどんなモノだろう
人以外のモノとの会話なので、当然言葉は使わない。言葉以外でのやり取り。やり取りと言っても、正直言ってモノからは、何も返事は来ない。人の方が、勝手に思うに近い。ということは、思い込みの世界なのかもしれない。かもしれないが、思い込みであっても、それをないがしろにしたくはない。何かそんな気にさせてくれる。この感じはなんだろう
なぜ、思い込みでもないがしろにしたくないのか。おそらくそれは、会話以上にわかり合える気持ちになれるから。モノとの会話というのは、そのモノの気持ちになる事。主体はモノ。自分は主体から離れ、モノが主体になる。そのモノの気持ちで、あらゆるコトを捉えていく。すると、見えてくるモノがそれまでと違ってくる
主体を自分からモノにするコトで、見えてくる事が違って、今まで見えなかった事が見えてくる。それは、支配から強調への転換。人は、あらゆるモノを支配したがる。支配するのを当然と考える。それでモノに対しての扱いは、雑で荒っぽくなる。それで良いようにも思うが、支配してもモノは言いなりにはならない
モノは力尽くでも、言いなりにはならず、モノとして人に抗う。それはモノの特性であり、自然の形。どんなにチカラで支配しても、自然な特性は変わることはない。力尽くの支配は、自然の特性を敵に回すと言うコト。敵に回す必要のない相手を、敵に回すと言うコト
モノとの会話は、モノの特性を知り、抗わない事。人の傲慢を捨て、モノの特性を知れば、モノは味方になってくれるという事。それがわかり合える状態。思い込みかもしれないが、特性を知る事にも繋がっている。主体を自分からモノに移す事が、傲慢を捨てるコト。傲慢を捨て去るラインが、モノと会話出来るライン
ヒトはチカラを持ったが、それによって傲慢にもなった。なんでも支配出来ると思って、乱暴に雑に扱うようになってしまった。でもそれは賢いとは言えない。せっかくのチカラは、あらゆるモノと協調する為にあるように思う。とするなら、もっと会話するべきなのではないか。そう思う
自分の主体を捨て、モノを主体とする。そうすれば会話が出来る。その段階で傲慢さは消える。自然の特性を無視し、自然を敵に回してしまう傲慢さは、消えてなくなる。モノを味方に付けるコトが出来れば、その特性はヒトのチカラになってくれる。それは、とても頼もしい事。敵に回すべきではない。もっと会話すべき
沢山会話して、わかり合って、味方に付けましょう。って言うのが結論ですね。では今日はこの辺で締めましょうね
会話は、わかり合い。モノと会話して、その特性を味方に付けましょう。傲慢に支配では、ずっとわかり合えないから
そうか、傲慢だよね人って。自分も含めてだけど、いろんなモノと会話して分かり合った方がイイ。それが知恵ってモンじゃないかね。分かり合えないって、知恵がないって言ってるようなもんだよ。知恵があるのと知恵がないのと、どっちを選ぶかっていったら、決まってるでしょ。うん。それじゃ今日はこの辺で
明日は『細分化』というタイトルで、プロ意識の功罪について考えます。お楽しみに!!