おのれ
というタイトルで、私の敵について考えます
最終的
最終的な私の敵は、なんだろう。それを考えてみる
私の敵と言うコトで、対象は世の中のとても根本的なところ、人の中にある普遍的なモノになる。当然のコトながら、その対象を否定はしない。するべきと考えているのはコントロール
結論から先に行ってしまえば、私の敵は勝ち負けや損得。この勝ち負けや損得に、操られる側ではなく、操る側になるべきだというのが私の考え。みんな操られてしまう。勿論無意識で。この勝ち負けや損得というのを、無くせと言うのではない。無くなっては困る。ただ、野放しにしては悪影響を生み出す要素でもある。あくまでコントロール
勝ち負けや損得に操られては、パワーゲームが始まる。自分の考えの正しさを主張し合うだけの、無駄な争い。物事は何も進まなくても、勝てば良いとなる。これではなんの生産性もない。建設的ではなく、現状の中で一喜一憂するだけ。その、停滞を抜け出したい
自分の考えをジグソーパズルのパーツだと思えば、相手のパーツも重要になる。勝ち負けや損得を棚上げして、少し離れた所から見れば、パーツを埋めるコトが停滞を解消する事だと分かる。ポイントはもっと遠く。その場で争うコトはない
相手をやり込める必要もなく、考えのパーツとして頂戴する。この時、否定や感情的な部分は取り除く。取り除いても、まだ残っている部分がジグソーのパーツ。有益なパーツ。それを集めて、並べていく。その先の為に。さて、その先には最終的に何があるのか
最終的に辿りつくのは、知り尽くす世界。知り尽くす世界では、勝ち負けや損得は利用するモノ。相手を否定もしないし、排除もしない。自分とは違う考えは、自分では担えない部分をカバーしてくれる、ありがたい存在。従来の世界は、否定をし過ぎだと思う
勝ち負けも、損得も、自分とは違うモノを否定し、排除するモノ。これが私の敵。勝ち負けも損得も利用はするが、君臨はさせない。問題を引き起こす、この勝ち負けや損得は、うまく利用するべきモノ。人が操るべきモノ。決して、勝ち負けや損得に操られてはいけない。そう思う
勝ち負けや損得は、生命が誕生してからずっとやってきた事。そしてそれはこれからも続く。その営みは尊く、消し去るべくモノではない。あくまでも、コントロールして否定と排除を無くす。パワーゲームになる事を回避。もう、人はとてつもないチカラを手にしてしまった。ただの生命の枠を越えてしまった
このまま、昔ながらの生命のように争い続ければ、それは暴力にしかならない。命の営みの中で、ずっと続いてきたもの。それの引き継ぎ方を変える。ボワっとした敵の輪郭が、ハッキリと見える。それは自分の中にも存在するモノ。ゴッチャにして、やり過ぎるモノ。切り分けて利用したい
どうやら無駄な争いが、多すぎた。その無駄な部分が私の敵。全体ではなく、無駄な部分を取り除いて、必要なモノだけを得る。全体を相手にしすぎていたので、ただの勝ち負けや損得という、大ざっぱな行動になっていたのだと思う。なんとか、そんな世界から抜け出せればと、そう願う。そう願いつつ、今日は締めたいと思う
己は、根本。私の敵は、私の中にもある根本のモノ。そこをコントロールし、否定や排除のない世界へ
否定や排除のない世界か。確かに否定や排除があり過ぎる。でも、それが普通だと思っているワケだからね。ただ肯定しろって言うんじゃないよ。有用な情報を分かち合おうって事ね。そうじゃないとモッタイナイって事ですよ。うん。そんなこんなで明日ですな
明日は『形ないモノ』というタイトルで、これから必要な価値の創造について考えます。お楽しみに!!