だく
というタイトルで、理解者について考えます
特別
抱くというのは、特別。理解者だと思える
自分を理解して貰えない。そう思っているヒトは多い
自分という人間の要素は多いので、本当に理解されるのは不可能と思う
ただ、抱きしめて貰うだけで、なんとなく理解された気になる
抱きしめて貰っただけ
なんの理屈もなく、なんの要素も理解されたワケでもない
ただ、抱きしめられただけ。なのに、理解された気持ちになれる
自分の細々した要素は、理解されていない。それなのに、理解された気持ちになれる
これはなんなのだろう。何を持って、理解されたと思ったのだろうか
抱きしめるという、その行為を探ってみる
抱きしめるその行為は、一対一。自分対その他大勢とは違う
自分を含めた大勢対、一人というのとも違う。あくまでも一対一
そして、抱きしめられている時は対等。上も下もなく、年齢も肩書きも関係ない
一個の生命と、一個の生命に戻れる
確かに、抱きしめる時以外に、そんな関係になることはない
普段の自分は、何らかの役目を持ち、何らかのポジションにいる
それらを着て、他のヒトと接している
それらを着ていないと、他の人と接するコトは出来無い
逃れられない自分の役目を着て、普段は生活している
抱きしめられている時も、最初はその役目を着ている自分
でも、その必要がないことに気づく。一個の生命で良いコトに気づく
世間的な自分を脱いで、本当の自分になれる
本当の自分と、本当の相手と。抱きしめあっている間だけの特別な空間
それが、人混みの中であっても、特別なプライベート空間になりうる
閉ざされたプライベート空間ではない。開放されていても、プライベート空間になりうる
本当の自分になれているから
弱い本当の自分になって良い。そのままの自分になって良い
相手もそう。しかも対等。一個の生命と一個の生命でしかない
その時、おそらく言葉ではない言葉で話し合う
そして何かをわかり合うのだと思う。結局、自分を理解してもらうって、そういうコトだと思う
ひとつひとつの能力を、認めて貰う必要なんかない。分かって貰う必要はない
自分の存在。その肯定。お互いの存在、その肯定
そしてまた、世間が求める自分を着て生活をする相手を、励ます
お互い、世間が求める役目を着ている。それを背負って生きている
それが大変なのを知っているから、お互いに励まし合う
勿論、言葉ではない言葉で
普段、言葉に頼り過ぎかな。言葉でなくても、本当にわかり合える方法があるのかもしれない
そっちは、ボワっとしてるけどね。抱きしめて貰うだけで、理解されたと思える
そのボワっとが、良いように思う。だって本当の自分だもんね
世間が求める、嘘の自分じゃない。弱虫でダメな、本当の自分
人間なんて、弱虫でダメだから、ここまで文明が発展したんでしょ
そんな事、みんな認めないだろうけど。本当はそうだと思う
そんな弱くてダメな自分に、帰れるんだと思う。抱きしめて貰うとね
言葉ではない言葉で、肯定しあって、励まし合って。それで解決するコトは、結構多いと思う
本当の自分に、アクセスする数少ない方法だからね。いや、唯一の方法かな
抱きしめるって、わかり合いの特別な、方法。それを今日の結論としましょうか
いや〜、今日もスッキリしたけど、なんでこんな重要なコト、今までわかんなかったんだろう
これが分かると、もっと人って生き易くなるのにね
それじゃ今日はこの辺で
抱くは、わかり合い。世間が求める鎧を脱ぎ、肯定し合い、励まし合う特別な時間。鎧は着ないといけないから、脱ぐ時間が重要
そうか、抱きしめあってる時だけが、鎧脱げるのか。男と女だけじゃなく、男同士女同士でも、年が離れていても、抱きしめあってる時は一切関係ない。一個の生命と生命だからね。わかり合って、逆にまた鎧着て生きていこうねってコトなんでしょう。うん。じゃあ明日ですね
明日は、『極楽』ってタイトルで、求める世界について考えます。お楽しみに!!