えすかれーしょん

こんかん

こんかん

というタイトルで、自分と違う考えについて、考察します

揺さぶられる

自分の考えが変わる時は、根幹の部分が揺さぶられた時

自分の考えは正しい

それはみんなが思っている事。自分の考えが間違っていると思いながら、生きてはいられない

今まで生きてきた環境の中で、自分が正しいと思える考えで、生きている

なので、他の人の考えを聞く時は、まず自分の正しいに合うか、確かめる

合うかどうか確かめる事が、フィルタリングだと思う

自分の考えのフィルターで、選り分ける行為

選り分けたあと、切り捨てるか、拾うか

普通は自分と考えが合わない人は、切り捨てる。ちなみに自分と考えが合わないというのは、自分が正しいと思う考えに合わないと言う事

ほとんどの場合、正しいが抜けている

この、正しいと思う考えは強固なモノ。なぜなら、自分が生きてきた中で、出した答えでもある

その答えを否定するのは、生きてきたコトを、否定する事にもなりかねない

そんな事はしたくない。それで自分が正しいと思う考えには、頑なになっていく

ただ、その頑なな考えが、ずっとそのままかというと、そうでもない。変わる時もある

自分が正しいと思っていた考えを、変える時。それはどんな時だろうか

それは、根幹が揺さぶられる時。自分の考えの根幹部分が揺さぶられる

自分の考えというのは、表面的なモノ。その表面を支える、根に当たる部分がある。それが根幹

自分の中では、生きてきた中で出した答え。であるから、その考えはとても自然なモノ

自然なモノというのは、取り立てて考えていない。疑ってもいない

その疑ってもない考えの根幹を、揺さぶられる。揺さぶられると言っても、チカラずくではない

どちらかというと、確認。考えていなかったモノを、再確認される行為

それはおそらく、質問。まずは、質問される

自分の考えは、自然に身についたモノで、取り立てて考えたモノではない

つまり、質問に答えられるだけの明確さがあるかと言えば、とても怪しい存在。つまりあやふやなモノ

絶対的な、自分の考えが実はあやふやだと、その時気づかされる

ただこれは、あやふやなだけで、間違いだと確定はしない

さらに、論理立てて整合性を、問われる

この整合性、つまり辻褄が合わなくなって、はじめて揺さぶられる

そのあと、その考えを受け入れて自分の考えを変えるか、頑なに譲らないかは、そのヒト次第

最終的に、自分の考えは自分で変えるモノ。他の人には変えるコトは出来ない

同様に、他人の考えを自分が変えるコトは出来無い

その上で、それぞれが正しいと思うモノを、ぶつけ合わせるんだけど

表面の考えに対して、否定やら指摘をしても、あまり効果がない

自分とヒトの考えは違うモノ。それが前提

違って当然だから、そこにアプローチしても効果は薄い

アプローチするなら、根幹でしょ。表面を支える、根幹の部分

そこに対してアプローチして、表面は否定しない。重要なのは根幹

根幹が動かない限り、考えが変わる事もない

話し合うならば、相手はそのヒトの中の根幹

ただ、その根幹の部分は、簡単に見えるようにはなら無い。そのヒト奥底にあるモノだから

とすると、ヒトは容易に考えを変えない。それで良いように思う

考えを変えようというのが間違い。それは人がとやかく言うモノじゃない

本人が決めるモノ。決めるコト。たまたま根幹の部分にぶつかって、あとはどうするか

みんな整合性やら辻褄を大切にする人とも、限らない

なので、整合性や辻褄がおかしくても、へっちゃらで押し通してしまう人もいる

結局、ヒトそれぞれ。それでいい。その中でどうするのか

どうあればいいのか。それは難しい所。その時により、状況によって変わる

結局は、そのヒト次第って事で。あとは、それぞれの人の成長に任せる

それでも最期まで変われないヒトもいる。それもまた良し。ってコトでしょうね

根幹は、生きてきた証し。正しい間違いではなく、それなりの答え。簡単に、否定して良いモノではない

そうか、どんな考えでも、簡単に否定はいけないんだな。ちょっとそこは反省しないと。どんな人でも尊重しないといけないし、考えも尊重しないといけない。するとカタチとしてやって良いのは、質問か。質問して、明確にする。質問は尊重もあるし、否定もしてない。なるほど、今日もいろいろ分かったなぁ〜。それじゃ明日ですね。

明日は『福祉』というタイトルで、普段の意識について考えます。お楽しみに!!

-えすかれーしょん