こま
というタイトルで、支配について考えます
第二次世界大戦
第二次世界大戦まで、人ではなく、駒だった
古い時代になればなるほど、人は人ではなく駒
支配者に、駒として扱われてきた。いや、人が駒になる状態を支配というのかもしれない
この支配の状態は、選ぶコトが出来無い。強制
それを快く思わないヒトと、ドップリと浸かる人が居る
駒のように扱われるので、快く思わないのは当然
にも関わらず、ドップリと浸かる人が居るというのは、どういうコトだろう
選ぶコトも出来ず、強制されるのに。なぜ、ドップリと浸かるのだろう
第二次世界大戦中を見れば分かるが、どっぷり浸かったヒトは、誇り高き駒
実際自分たちを、駒とは思っていない。人以上の存在を作り、それに仕える
自分は人であり、神に仕える。実質的には駒だが、それを上手いコト隠せている
この誇り高き駒の一要素は、自己犠牲。自己犠牲というのは、とても気持ちの良いモノ
なぜなら、自己犠牲はみんな嫌がる事。それを出来ている自分は、勇気がある。意識が高いとなる
実際、他人の為に自分が犠牲になるというのは、美しいのかもしれない
意識も高く、普通のヒトでは出来ないのかもしれない。そこは誉められるべきモノ
ただし、大戦中は少し違う。悪質な部分も存在し、それも隠している
決して純粋ではない。悪質な部分は、神である天皇を用いれば、全て帳消しに出来る
なので、この自己犠牲というのは、特定の人間のご都合主義も含まれる
そして何より、破壊、殺略が戦争。双方の兵士が消耗する
これでは、自己犠牲もやはり駒でしかない。捨て駒でしかない
戦時中の状況は今とは違う。仕方のない部分も、大いにあったと思う
その分も踏まえて、今回はこのくらいで納めよう
ただ、もっと純粋な自己犠牲。戦時中ではなく、平時での自己犠牲は必要だろうか。それも考えてみたい
駒ではなく、人としての自己犠牲。強制ではなく、選択としての自己犠牲
これはどうなのだろう
自己犠牲自体、駒であり奴隷。何者かの為に、命すら捨てて奴隷にもなる
これは、本人の納得。それこそ誇り高い選択。他の人はやりたがらない、高い意識と言える
福祉などにも通じる、自己犠牲。これは人に必要だろうか
自分で納得して、駒になる。奴隷になる
それってとても高尚な事。なるほど、戦時中もやり方が間違えただけで、その意識は高尚だったかもしれない
強制があり、方法論も破壊的なモノ。このやり方は、人を不幸にする。また、誰かにとってだけ、都合が良い
誰かを不幸にし、誰かにとってだけ都合が良いモノは、不純
不純の自己犠牲は、残念ながら高尚とは言えない。歪められてしまっている
とてもザンネンな状態
誰かを幸せにする、その為に自己犠牲なら高尚。素晴らしいモノ
自分を、人から誰かを幸せにする為の駒に変える。へんげの術
もしも自分が駒になったならば、それが人を幸せにするか、不幸にするかは確かめたい
人を不幸にする駒は、不純であり、インチキ。そんな存在になってはいけない!!
そんなインチキな存在を、許してはいけない
その時の状況にもよるだろうが、極力避ける。あくまで、幸せにする為の駒
意義もあり、高い意識もある。その駒であるならば、どんどんやって欲しい
幸せを作る為の駒なら、どんどん行って欲しい。それは頭が下がる
とても素晴らしい行為。目的と、やり方と。それによって意味合いが大きく変わるってコトだね
ポイントは、そこなんだなぁ。うん
駒は、自己犠牲。不幸にするか、幸せにするかの大きな違い。ヒトはヒトとして、駒になる
そうだよな。強制されてやらされるのは、奴隷だよな。やっぱり自分で、それを選ばないと。自分で選んで、誰かを幸せにする為の、自己犠牲じゃないと。せっかく自分を犠牲にするんだから、そこは譲れないトコロだよね。今日もいろいろ分かりました。良かった良かった
明日は、『根幹』というタイトルで、自分とは違う考えについて、考えます。お楽しみに!!