こり
というタイトルで、体について考えます
刺激
体のコリをほぐす時、マッサージとかいろんな刺激をする。それってどうしてだろう
体の箇所がコる。筋肉が強ばって、血流が悪くなってる
この時、マッサージなどで筋肉をほぐす事で、血流が回復する
それがコリをほぐすと言う事。大体それで良いと思うけど、それだけじゃないような気がする
刺激をする事によって、そこが意識下になる
だいたい、コリを感じるのもそこに違和感があるから
違和感を取り除くために、いろんな刺激を試みる
これって、最初にまず違和感によって、意識下に置かれ、刺激する事で更に意識していく行為
少しまどろっこしい言い方になったけど、意識下に置かれる事が重要じゃないかと
意識下に置かれるって、もう一つのルート
体の中だけじゃなく、痛みによって、行動が制限される
意識が行動を司っているから、そこに連絡が来るって重要だと思う
痛みがない時は、何も気にせずに行動してしまう。それってリスク
あまり状態が良くなくても、そんなコトお構いなしに行動
これは患部になお、ダメージを与えてしまう事にもなりかねない
意識下に置かれる事で、患部をいたわる行動に変わる
いたわるって言うのは、かばうだけじゃなくて、ケアする行動にも繋がる
コリをマッサージするのも、ケアするひとつの方法
意識は体と、痛みで対話
それによって、いたわる行動を促している
体は言葉を持たない。唯一持っているのが痛み。もしくは違和感
体の箇所によって、いろんな痛みを発する。それによって、意識はいたわる行動をとれる
同じ痛みでは、患部がどこか特定できず、混乱してしまう
それで、様々な痛みで、知らせる。というより、対話するのだと思う
体は、基本的には無口。存在しているのか分からないほど、意識の通り動いてくれる
でもそれでは、機械と同じ。命令を聞くだけの機械
従順に命令を聞き、それに従うだけなら機械
体は機械じゃない。痛みで意識と対話する事で、生命になる
60兆の細胞ひとつひとつ。全てで体。それは機械ではなく、命
60兆の細胞ひとつひとつが命であり、また総合してひとつの大きな命ともなる
自分というのは、意識だけではなく、その大きな命の事
60兆の細胞は、まったくもって無口であるが、大切な自分を構成する存在
少なくとも、機械ではない
時には病気になるコトもある
その時は、体との対話の時間。意識による、勝手な行動ではなく、体を最優先にする時
ヒトが最期を向かえる時、ある程度の間、その時間が用意されるコトが多い
今までの人生を振り返ったり、大切な人と会ったり、そして体との対話も
それまでずっと共に生きてきた体。病気ではあっても、その対話は重要と思う
機械じゃないからね。命だからね
いや、ホントなら健康の時から、対話したってイイのかもしれない
乱暴に振る舞って、身勝手な行動を体は求めていない
健康の時から、対話していたわるって事も、あってもいい。無茶な行動は、控えてあげる
いろんな事に自信のあるヒトは居るけど、それはほとんど体が担っている
体が偉いだけで、当人が偉いかはあやしい
無口な体のおかげ。なので、普段から意識下に置いて、対話してみる
一緒の人生。絶対的な仲間。頼もしい60兆の細胞達。彼らと対話して生きてきた。そして生きていく
お供との対話。対話って確認。無口といっても、いつも状態が同じワケじゃない
状態の確認をして、的確にいたわる
それって共に生きる物として、当然の行動だと。そう思う
コリは、異常。意識下に置く事で、いたわる行動がとれる。対話しながら、共に。まだ生きてる途中だから
いや〜。なるほど。対話していかないとな。結構無茶させてきたし、カラダは自分の物だから良いだろうって、思い込んでたな。若い時はそれで良いかもしれないけど、もう曲がり角だし。キチッと対話しないとイケないよね。体は、もう一つの自分。大切な存在
はい。なるほど。大切にだね。では明日『第3の原動力』というタイトルで、学びについて考えます。お楽しみに!