みしょうか
というタイトルで、知識について
バラバラ
知識はバラバラで未消化
知識が、脳の中で散らかったピースのように散乱
それが多ければ多いほど、とっ散らかってる
片付けられないで、ゴチャッとしているだけでしょう
今って、いろいろ情報を得られる。こんなにいろんな情報を得られるのって、人類にとってお初
それだけに持て余し気味かも
バラバラなピースが、ただ積まれてるだけで、それだけで満足
その知識って、どこにあるべきなんだろう。あるべきトコに置かないと、ただの持ち腐れ
持つモノが多いほどに、ひとつひとつにかける思いも薄くなる
それに知識って、結構うろ覚え
なんとなく分かって。なので、そのしまい所もイマイチ。迷う
シッカリと、この知識はここにしまえばいいって分かってれば、迷わないけど
なんとなくボワっと、なんとなくなんとなくで、漂ってる状態
それから、シッカリとした所に、シッカリとしまわれていたとしても、使い方が分からない
それをどう活用したらいいのか。それにも知恵がいるでしょ
知識が増えてもね。その使い方教えてくれないと、しまい込むだけ
一度も使わないで、押し入れに入れっぱなしと同じ
実際使い方が分からない知識って、多い。使う場がないのもネ
いつか、使うかなって眠らせてるモノ。そんなのも多い
それもコレも、全部未消化の知識でしょ。知識が増える毎に、未消化も増える
納める所に納めて、活用できるようになって、始めて消化したって言える
自分の頭の中に、どれだけ未消化の知識が多い事か
ただ、入れて置けばいずれ整理整頓される事もある
そこが難しい所。知識はそれぞれ腕を伸ばして、納まる所を探している
活用のやり方を一つ知ると、それをヒントに、眠っていたモノも目覚めて、活用できるようにもなる
なので、この未消化の状態も、全くの悪とも言えないみたい
知識自体が、蠢いてくっつきたがっている。いや、くっつきたがるように、蠢くようにしないとイケないのかも
知識が蠢くようにか。さて、どうすればそんなコト出来るのか
知識って、得る時がピークで、その後満足してしまいっぱなしになる
これじゃ、蠢かない。やっぱりたまには引っ張り出さないと。使い物にはならなくなる
それに知識の良い使い方をしている見本も探さないと、使えないままでしょ
良い使い方をしてる人を探す。使い方を見て、自分の知識もどう使えるか。想像してみる
そうすれば、知識は蠢く。蠢くようになれば、くっ付き合って、納まる所に納まっていく
活きた知識と、寝たきりと知識と。知識にも、いろいろあるみたい
もちろん、活きた知識にするべきでしょう。寝たきりの知識じゃ、かすれていくだけ
とすると、知識を得るのと、使い方はセットなのかもしれない
使い方のない知識って、寝たきり知識になっちゃうね
どうだろう。寝たきり知識って、結構多いかも。もったいないね。無駄知識で、ごっちゃごちゃ
大体知識って、使い方とセットにはなっていないから、探さないといけないんだな
使い方がない知識は、不完全で寝たきり。ほとんどの知識がそうだね
ウンザリするほど、知識だけ。未消化って言うか、不完全なワケだ
まいっちゃうね。寝たきり知識が、たっぷりってね
こりゃ、気をつけて、なんとかしないと。いや、探す手段はあるワケだから、使い方もなんとか探せるんじゃないかな
蠢かせて、活かさないとね。知識はさ
未消化は、知識。不完全なやり方が、当然のように幅を利かせてる。ソレじゃ寝たきり。知識って、ほんとは別物かも
ほんとの知識って、もっと違うモノかもしれないな。私たちが知識と思ってるモノって、ただのお荷物かも。ほんとの知識は、知識同士が関係し合って、形成されていく。つまり生き物のようなモノかも。とすると、頭の中に蠢くモノを飼うワケか。それはそれでちょっと気持ち悪いけど、そういうモノなのかもよ。はい。
そんなこんなで明日なんですけど、『普遍性』というタイトルで、ベタの究極について考えてみます。お楽しみに!!