えすかれーしょん

ないほう

ないほう

というタイトルで、この世界について考えてみます

見える

見える世界に内包されて、感じる世界があり、さらにその中に

今、見えているこの世界。見えてるんだから、当然眼で捉えてる

そんなコトは当たり前なワケですけど、見えている世界が全てではないでしょ

あくまで見えているのは、眼で捉えられる世界

眼は万能じゃない。眼の限界。そして限界を知るとその先の存在が

その先にある世界。正確に表現すれば、内包されている

その内包されているのは、感じる世界でしょ

目で見る世界じゃないけど、感じるコトが出来る世界

この感じる世界は、どういうものだろう

感じるってコトは、そこに何か原因があって、そう捉えている

ただし、それがあまりにも僅かすぎて、ハッキリとはしていない

ボヤけてしまっているんでしょうね。ボヤけているから、なんとなく

なんとなくは感じる世界。ハッキリとではなく、おぼろげな世界

それだって、そのおぼろげな中のシッポを掴んでしまえば、引きずり出すコトは可能

そのほんの僅かな物はなんだったのか、引きずり出して確認

シッポは感じているのだから、執念深く辿っていくコトで、原因は掴める

その段階で、感じる世界は、見えるようにもなる

でも、あくまで僅かだから、やっぱり眼では見えないんだけど、それだって原因は説明出来る

おぼろげな世界の究明。それをすると、更なる先がボワっと表れる

それは、感じるコトも出来無い世界

感じるコトも出来無い世界なら、普通に考えれば手も足も出ない

感じないのだから、やるだけ無駄。と、そう思っても仕方がない

でも、そうじゃない。おぼろげな世界がある程度ハッキリと分かるようになると、なにかオカシイ

何かオカシイ点が、表れてくる。どうやっても、説明出来ないコト

それが、感じるコトも出来無い世界

姿を現したオカシイ点について、あれやこれやといじるコトで、ほんの僅かの手がかりを見つけ出していく

これは、全くの作り話ではなくて、現実にもある話

今で言うなら、ヒッグス粒子などが、感じも出来ない世界になる

感じるコトも出来無いけれども、何かがオカシイ。説明がつかない

それを説明付ける為に、ほんの僅かな手がかりを探し出していくやり方

物理学の世界では、現実的にそれを進めている

でも、おそらくそれって物理学の世界だけじゃない。他にも、この内包された世界はあるように思う

あらゆるモノが、見える世界、感じる世界、そして感じも出来ない世界で構成されている

これは、世界がそうなっているのではなくて、人間の限界なのだと思う

見える物を世界として、それを全てと思っているヒトもいる。見える世界の限界

それに疑問を抱いて、感じる世界に辿りつくヒトもいる。でも、その世界はあまりにもおぼろげ

おぼろげな世界の中で、だいたい止まってしまう。それも限界だよね

でも、その先の感じない世界まで踏み込む、変わり者もいる。ただ、手がかりはほぼゼロ

おそらくは変わり者のまま、生涯を終える。結局、変わり者にしてしまうのが、人の限界

感じるコトが出来無くても、その法則はあるのに、そこまで理解出来ない

もし仮に辿りつけても、誰も信じないのかもしれない。信じられないまま、生涯を閉じる

やっぱり確かなモノ以外は、分からないし認めたくない。そんなもんでしょ

いろんなモノが、内包された世界にあっても、結局は見える世界だけ

ほとんどの人は、見える世界だけの信者。感じる世界でさえ、見えるようにしなければ、存在しない

この世界の本当の姿は、分からずじまい。人の限界

でも、きっと内包されている。手がかりが少ないだけで、この見える世界の中に

本当にすぐ近くに、気づかないまま、通り過ぎている

あるけど、無いと同じ。どれだけのモノを、通り過ぎているのか

答えは、すぐ近くに。ずっとある。ずぅ〜〜っとある

それを見えるようにするのが良いのか、見えないままが良いのか、それはわからない

でも確かに、そこにもここにも存在してる

内包は、存在。見えも感じもしなくても、ある。あらゆるモノに、それが存在してる。まだ何も、分かっていない領域が

私たちって、結構分かってると思ってるんじゃないでしょうか?でもホントは、何も分かってないに近い。眼に見える世界だけ、分かってる。でもそんなのほんのちょっと。ホントに分かりたいなら、せめて感じる世界。そこに踏み込んでからってコトじゃないでしょうか?

では明日なんですけど、『運命』ってタイトルで、不幸について考えてみます。おたのしみに!

-えすかれーしょん