今日は、ヒトが見る所について、チョッとね!
かく、かた、かたち
何を
モノの何を見る?核か、型か、形だろうか
モノを見るというのは、形を見るコト
なので形を見るというのは、そのまま。見たままで捉えている
では、型や核を見るというのは、どういうことだろう
モノには核がある。形の中に、核を持っている。一つのモノに、核は一つ
ただ、核というのはモノ深い所に入っている。とても見えづらいもの
その核自体も、モノのカタチとはまるで違うイメージだったりする。他のヒトには、とても分かり難い
では、型というのは
型は、形を作る為の部品。ただ、どこでもいいというのではなく、核を含むもの
核を含み、形を成している。形を成しているので、分かりやすいし、核も含んでいるので揺るがない
一番使い勝手が良いが、核を曖昧に捉えているので、根拠という面では乏しい
数学などは、型の代表。核が明確なモノもあるが、だいたいのモノは不明瞭
数学において、どうしてそうなるのか?と言う問いかけは、禁句
型なので、どうしてそうなるかという核の部分は、必要無い
そうなるからそうなるんだという、とても乱暴な落とし所に納まるコトも多い
それは型の特徴。もっと言えば、型の限界
限界を超えている部分を求めれば、乱暴や横暴にして、治めるしかない
ただ、型は分かりやすさと揺るがなさの両面を持つ。それを見て使いこなせれば、一番使い勝手はいいだろう
核は、そこを押さえれば、どんなモノでも作り出せる。核を押さえているので、形も自由
無限の中から、最良の形を作り出すことも可能。ただ、その形は馴染みがない
形であるので、誰でも分かるハズだが、あまりにかけ離れていれば、理解はされない
核から作ってしまうと、結局一般に浸透するまで、時間がかかる。ある意味、やり過ぎの観がある
形を見るのは、そのままなので一番受け入れられる。ただ、発展性には欠ける
無駄な部分も多い。無駄な部分もそのまま受け継ぐことになる
形ばかり追うと、応用は利かないし、覚える量も膨大になってしまう。かなり機械的な作業
核か、型か、形か。どこを見るかというのは、ヒトそれぞれ
ちなみに私は、核を見る。なので、このブログで分かるように、分かり辛い
それぞれの良さがあり、どれが良いというモノでもない
ま、場面場面で協力すればイイだけのコト。それぞれの違いを長所として、とらえればいい
担うポジションが違うので、出来ない所は、託す。渡してしまえばいい
一つのモノでも、ヒトによって見方がまるで違う。見ている部分が違う
どれを見ようとするかは、自由さでもある。見ようと求める。何を求めるかは自由
モノは表面だけで、出来ているワケではない。また、核だけでは何も出来無い
やはり形にしないと、何も使えない。その要素から、核、型、形それぞれを見るコトが必要になるのだと思う
モノの存在の深さ。それを再現する、ヒトのチカラ。いろんな能力が、確かに必要
核、型、形は、捉える。知って使う為に、いろんなとらえ方。その自由さの中で、そのチカラを活かせるように。探求と、一般化
探求と一般化か。確かに探求もしないといけないし、一般化もしないといけない。宝の持ち腐れになっちゃうよね、一般化しないと。でも、それを求めてない場合もある。自分にとっては価値のあるモノでも、他のヒトには、まるで価値が無い。そんなコトって多い。それをひっくるめての一般化だから、相当ハードル高い。よね