今日は、ヒトの行動について、チョッとね
せきしょ
通れるか、止められるか
通れるか、止められるかは決まっている。関所がある
内容は関係ない。すんなり通れるヒトと、止められるヒトがいる
何かをしようとする、その時
何事もなく、すんなり通れるヒトがいる
誰も止めず、すんなりと通す。一度や二度声をかけられるかもしれないが、すぐに通れる
逆に止められるヒトもいる。どんなに優れていても、止められてしまう
内容は関係ない。止められ邪魔をされ、潰される
これはどういうコトだろう。現代の世の中に、関所など無い
もっと自由なハズ。でも、それは日常的に行われている
どういう人間が、すんなりと通れてしまうのか
これは、肩書き。ご立派な肩書きがあればあるほど、すんなり通れる所は多い
内容は関係ない。中身は問われない
もともと肩書きというモノに、中身は付属しない。誰かが与えた、称号。それが肩書き
どうやら、現代でも見えない階級が存在する。その階級によって、関所は開いたり閉じたりする
見えない階級社会では、パワーゲームがいつも幅を利かす
そのパワーを見極めるコトが、優れた社会人とされてもいる
残念ながら日本にいる優れた社会人は、内容で判断はしない
誰が上で誰が下かで、その階級を見極め、行動を決めていく
儒教の影響だろう。それが悪い方向に、まだ
見えない階級社会として、存在してしまっている
その中では、どんなに優れた内容でも止められてしまう
階級が上だとされるヒトから、道を塞がれ止められる
出来ると出来無いは関係ない。そのポジションを取ろうとする
まるで江戸時代。隠れた江戸時代が存在する
それほどまでに、原始的なシステムで動いている
階級があって、パワーを見極めて、振る舞いを決める
上の者に媚びへつらい、下の者にはふんぞり返る
チカラあるモノに従い、チカラが無くなった途端、足蹴にする
なんと卑しく、本質からかけ離れているのだろうか
結局は保身。これは儒教の精神とも違う
儒教は保身とは違う。いや、儒教というのもそれに腰かけては、保身になるんだろう
つまり自分の為に動いているのが、腰をかけてラクしている状態
儒教はヒトの為のモノ。相手を思いやる心。自分がラクをする為のモノじゃない
いつの間にか自分の為に使って、保身がはびこり、怠惰になっている
その怠惰が、卑しさに繋がる。本質を見ない態度に繋がっていく
見えない階級社会は、怠惰が生んだもの
肩書き社会は、怠惰の現れ。この怠惰を取り除かなければ
怠惰は保身で、自分の為のモノ。それを捨てる必要がある
人を見る時は、自分の為に見てはいけない。自分を度外視して、よく見ていく
理解が出来なければ、それは相手が優れているというコト
協力する必要は無いが、邪魔をするべきでもない
邪魔をしなければ、すんなり通れる。放っておけばいい
邪魔をしすぎている。誰の為でもなく、自分の為に、邪魔ばかりしている
そこが諸悪の根源。改めた方がイイ
関所は、怠惰。自分の身を守る為だけに、ヒトを選り分ける。怠惰が生んだ、見えない階級社会。肩書きは見えない闇
保身が入ると歪むね。真実じゃなく、順番。いつの間にか、おかしなルールがはびこり、形式的に守られるヒトが出てくる。形式的だから、本質からは離れるよね。本質の質が低下するワケだから、いろんな問題は起こる。それは闇。保身の闇が低下させる。ヒトの為に働いている内は良いけど、すぐ自分の為にすり替える。その危険性は、いつでもあるってコトなのかな