しんじつ
プライバシー
隠すべきか
真実には、プライバシーを含むモノもある。隠すべきか、出すべきか
真実は出さなければいけない
真実を隠しては、物事が見えなくなる
物事の流れが分断され、繋がらなくなってしまう
真実は出すべきモノ。ただ、真実の中にはプライバシーも存在する
プライバシーも出すべきだろうか
必要であれば、出すべきだと思う。ただ、不要であるプライバシーを出しても意味がない
真実は出すべきモノだが、不要なモノは出さなくてもイイ
プライバシーに関してはそれで良い。では、なんで真実は隠されるのか
おそらく隠したいのは落ち度。そしてやましい事
それは隠したい。出してしまえば、今までの自分ではいられない
今までの自分で居る為には、隠さなければいけない
落ち度や、やましい所を出してしまうと、どういう自分で居ればいいのか、見当も付かない
どういう自分で居られるか、責めには耐えられるか
であるならば、隠してしまった方がイイ。そうやって真実は隠される
それで流れは断然される。断絶されたその部分を、ウソで埋める
ウソなので、とても不格好にもなる
いや、キレイに埋められたとしても、それはやはりおかしい
真実でなければ、やはりニセモノ。ニセモノは世の中に溢れている
プライバシーは出したくないモノ。プライバシー関係は、ウソが混じる可能性は高い
それもニセモノ。となると、世の中はニセモノで出来上がっている
その時のその空気に合わせて、いくらでもカタチを変えていける
ウソなので、柔軟になんにでも成るコトが出来る
真実は一つなので、カタチを変える事は出来ない
その場その場で、場当たり的に違う自分になってもイイのかもしれない
ウソだらけなので、それを責めるコトも難しいのかもしれない
すべて真実だとすると、どうだろう
すべてが真実だとすると、それはそれで味気ない
とても分かり易くなるが、だからといってどうなるモノでもない
あるとすれば、次の一手が打ちやすくなる
すべて真実なので、次に何をすべきかが、容易に分かる
たしかにそれは、良いコトかもしれない。でも、恐ろしいコトも起こる
自分に、向き合わなければイケない。ヒトというモノに、向き合わないとイケない
どれ程残酷なモノか。どれ程イイ加減なモノか。どれ程ショボイものか
向き合わないとイケない。それに耐えられるだろうか
あまりにも真実すぎると、ヒトは耐えられないかもしれない
それなりに、見たくない現実はウソで飾られて、カタチ作られている
自分でない事としても、すべて真実を見るというのは、耐えられないかもしれない
ウソというのは、クッションになっている。そう言えるかもしれない
真実だけでは、痛すぎる。直接的に喰らいすぎる。それでは怪我をしてしまう危険性もある
ウソやニセモノが沢山あるというのは、ある意味やさしさも含んでいるのかもしれない
その場の空気に合わせる事で、穏やかに生きられている部分が、あるように思う
真実は直接すぎる。ウソでニセモノの世界も、ヒトにとってはあっている。真実だけの、残酷でショボ過ぎる世界では、ヒトは生き辛い
真実って良い事だと思っていたけど、ちょっと考えは変わった。ウソとかニセモノがそれなりにクッションになって、和らげてくれてる。確かに真実だけの世界って、恐すぎるかもしれないね