たよう
認める
声なきモノ
日本では、声なきモノに対して、多様を認める文化
とてもルーズであり、それだけに自由度も高い
ヒトに対しては、ルーズではない。かなり厳しく、統制されている
ヒトは、コントロール下に置かれる。自由度も少ない
ヒトには厳しいが、モノ言わぬモノとは心を通わせる
それを畏れ、尊ぶ
もしも声なきモノをないがしろにすれば、それは祟りとなって自分たちに襲いかかる
祟りは恐い。それで、声なきモノを大切する考えが、現代に至るまで続いている
声なきモノを、いわゆる”もの”として支配はしない
心を通わせる為、魂を、声なきモノの中に感じ取っている
ヒトと共通のモノを、あらゆるモノに感じている
実際にはどうなのかは分からない。でも、あると信じる。それは畏れ、そして感謝にも繋がる
ハッキリ分からないモノの方が、いくらでも畏れる事が出来る。いくらでも感謝出来る
あらゆるもの。個々のモノを全て、崇める。多様であるモノを、そのまま受け入れる
多様であるモノは、動かそうとしない。畏れているので、動かせるモノでもない
かといって、全てに対して畏れては、何も出来無くなる
その中間。折り合いを付けていく
ヒトはもともと、物言わぬ弱いモノには、残酷になれる
ヒトが生きていくには、残酷になる事も必要かもしれない
でも、どこまでやって良いのか。どこまではやり過ぎなのか
その線引きは難しい
そこで残酷と、もう一方に畏れもつくる。物言わぬモノに対しての畏れ
弱きモノに対しての畏れ。それでやり過ぎてしまうコトに、ブレーキをかけるコトが出来る
やり過ぎれば、祟りとして自分に降りかかる
畏れがあるので、存在を尊重出来る
自分と共通する部分を感じるので、心を通わせるコトも出来る
行動ひとつひとつで、考えそして感じていく
横暴な振る舞いを、押さえるコトが出来る。自分を制するコトができる
なるほど、日本人の優れた特性は、自制かもしれない
物言わぬモノがそのまま、そしてより魅力的になるように、演出する
日本の庭には、そのような考えがあるように思う
そのモノらしく、多様で、それぞれが魅力的になるように
物言わぬモノに対しては、それが出来ている。その下地は充分に備わっている
あとは、ヒトに対しても多様を認め、そのヒトがより魅力的でいられるようにしていく
それだけでいい。畏れと、感謝を、どの国のヒトに対しても向ければいい
共通性を見つけて、心を通わせる。そして魅力的になるように、多様を喜んでいく
対象を、ちょっと変えればいい。絶対に無理というコトではないハズ
多様は、らしさ。物向けられていたやり方を、あらゆる国のヒトにも向ける。全てのヒトが、らしく、魅力的でいられるように
なるほど、日本の庭は魅力的だよね。確かに多様な物を、魅力的になるように配置してるからなんだよね。ヒトもそれぞれに魅力的になるように居られたら、どんな景色になるんだろうね。日本人がするべきコトは、その素晴らしい景色を見せるコトなんじゃないかな