きょういく
目的は
追いつきたい
教育の目的は、先進国に追いつきたい
日本では、文字が無かった時代には中国という先進国から
そして江戸時代が終わる頃には、ヨーロッパと言う先進国に追いつきたいという気持ちから
追いつきたいのは、個人というよりも国家的意識
目的は、個人というより、国家的な戦略と読み取っても良い
近代の教育は、ヨーロッパから持ってきている。大元を見れば、そのマネをしている現状の教育も見えてくるハズ
さて、ヨーロッパでは教育というのは、どういう流れで出て来たのか
教育というのを受けられたのは、おそらくごく一部
王室や貴族達と言う特権階級。名門と言われる所は、いわゆる特権階級のヒトの為の学校
時代が移るにつれて、その学校に、貧しくても頭のいい子ならば、特別に入学出来るようになっていく
また、特権階級でなくても、お金持ちならば入学出来るようにもなっていく
それで名門に入れるのは、特権階級か、金持ちか、よほど頭が良いかというコトになる
この目的は、資金とより頭の良い家来を作る為
それが名門の学校の目的。学校とは本来そういう性質を持つ
現在、その意味合いは薄らいでいる。それでも、過去というのは引きずられるモノ
マネて作られた日本にも、その要素の一部は、シッカリと残っている
というよりも、目的というのはテーマなので、その後にも脈々も引き継がれる
なぜならば、テーマは道筋を示すモノ。最初から、示されていない道筋には、進みようはない
教育を受ける人は、自分の為に教育があると考えてしまう。その為に用意されていると思い込んでいる
勿論そうあるべきだし、そうでなければおかしい
ただ、教育というのは、教育を受けるモノの為に作られてはいない。そんなテーマで出来上がっていない
あくまで国家的に必要なだけ。有能な家来を育てる為、つまり頭の良い子を見極めるだけが目的
学校は、大いなる選別所でしかない
とくに出来上がったのは、まだ未熟な社会。支配層がいた頃、そのテーマもカタチも出来上がった
未熟な社会では、短絡的な考えに基づいて物事は運んでいく
有能な家来。つまり支配者が多少頭が悪くても、それを支える家来が有能であれば、うまく行くと言う考え
それで出来上がっている。決して、一人ひとりの為に教育というのは作られていない
日本でも、あくまで国家の為の、有能な人材を選び出して育てる為の、機関でしかない
教育を受ける者の為と考えると、おかしなコトばかりなのは当たり前
もともとテーマが違う
重要なのは、未熟な時代に作られたモノがとても重宝され、絶対の存在で居るというコト
そこで、おかしなコトが押しつけられ続ける
当然のコトとなってしまう
テーマを変えなければいけない。道筋を示すテーマを、まともなモノに変えなければいけない
頭の良い子だけを選んで育てるのではなく、社会の担い手として、多様な人材を認め育てるというテーマに
昔には出来なかったテーマ。ただ、現代なら出来る
テーマの作り直し。そこから、全体像を変えていく。現状の教育は、そこまで大事にするシステムでもない
未熟な支配の時代を、引きずる必要は無い
教育は、引きずる。大元がヘボなら、改める。先細りの状況に来ていて、まだ引きづり続けるのだろうか