えすかれーしょん

えだわかれ

えだわかれ

違う

それはどこから

どこから枝分かれして、違って来るのだろう

ヒトは違いを判断して、区別をしているようだ

それで、学校関係のテストなどでは、まだ平気で”仲間はずれはどれでしょう?”という問題が出題される

違いを判断して区別するので、この仲間はずれを探すというのは、ニンゲンの能力に合っているのだろう

ただ、それはかなり初期に、限定されるべきだと思う

なぜならば違いを見るだけでは、足りないから

違いだけを見るのでは、自分と他者との関係も断絶してしまうから

これは根深い病巣。現代のヒトは、違いだけ学んでいるので、全員欠落して育ってしまったと言ってイイ

モノとモノとの共通性も必要

違いだけでなく、共通性も本当は必要

違いというのは、初等教育から出来る

ただ、共通性は物事を学ぶほどに、見えてくる

つまりある程度のコトを学んでから、共通性を身につけていくコトになる

具体的には、小学6年生くらいからかと思う

6年生くらいから始めて、その後は研究者レベルまでずっと続く。終わりはない

なぜなら一つの要素が分かれば、その分共通性があるモノも増える

ヒトの知の量と共に、共通していると言うコトが分かり、断絶は埋まっていく

違いと、共通性の二つを持ち合わせると、枝分かれを読み取れるようになる

どこまで同じで、どこから枝分かれをしたか

それを捉えられるようになる。その枝分かれを知ると、断絶しすぎている自分が見える

途中までずっと同じで、枝分かれしてほんの僅かしか、経過していない

それなのに、違うモノとして断絶しすぎている

共通性を学ぶコト無く、大人になってしまうので、自分とは違うモノと位置づけしすぎてしまう

枝分かれした後でも、共通性は出てくる

例えば、ヒトと机。この共通点を考えてみる

ヒトにも机にも脚がある。脚は、重力に反対側に垂直に伸びている

おそらく大切なモノを、脚の働きにより、高い位置に置くコトでいろんなリスクから守っているのだと思う

地面に近いほど、リスクは高い。他の生き物も、地面近くに多くいるから

それで脚を付けて、高さを作る。さらにはヒトが脚がある分、活動領域が少し高い所になる

机は、これに合わせて脚を付けているとも考えられる

共通性を考えるコトで、かなり初期に枝分かれしていても、近いモノと感じられる

環境や条件が近いので、違う進化の過程を辿っても、似てしまうコトはありうる

カタチ一つの意味、存在一つの意味も、分かってくる

違いを知るコトも重要で、共通性を知るコトも重要。両方が必要で、その上で枝分かれをイメージ出来る

枝分かれをさらに飛び越えて、それぞれのカタチの意味、役割まで知るコトが出来る

断絶しすぎていた、従来を改めたい

枝分かれは、実体。違いだけでは、まるで幻想。共通性と両方で、本質を捉えられる。今のままでは、たった半分。

-えすかれーしょん