みえる
差はない。
なんとかなるハズだと、傲慢に思う。
傲慢に思うのは、見えているから。
見えているモノの差は、殆どない。
そうなると、当然その差は埋められるモノと思ってしまう。
それは年齢だったり、地域だったり、実質とはまるで違っても、そう思う。
でも見えているのは、一部だから、差は埋まらない。
傲慢に埋めようとするが、それではまるでうまく行かず、挫折するコトになる。
この短絡的な傲慢さというのは、夢を見せてくれる。
そして夢で終わらせてくれる。
脳は、挫折してもまだ理解出来ない。何で埋まらないのか、ただ自分に能がなかったという、結論にしてしまう。
実際は、殆どを見逃しているから。もっと、重要な要素があり、それを見ていないから。
でもそれを理解出来ずにいる。
一部だけ見て、それを出来ると思ってしまう。
なので必ず挫折する。最初はうまく行かない。
そのあとで、『それでもやるか』があるかないかで、違いが出てくる。
さらに傲慢を押し通せるか。物事を成すヒトは、傲慢なのかもしれない。
そして、その挫折から這い上がり続けた人なのかもしれない。
まず最初に夢を見る。大したコト無いと思わせる。それがスタート。
そして、挫折する。うまく行かない。これが第2段階。
それで、理解しようとしていろいろと動き回る。第3段階。
挫折と理解を繰り返し、やっとコトを成す事が出来る。それが最終段階。
出来ると思えなければやれない。傲慢で見る夢は、出来ると思わせてくれる。
それは間違いではあるが、必要な要素。あとは、自分のチカラで埋めていけるかどうか。
見えているからといって、出来るワケではない。事実はそうだが、脳はそこだけは賢く出来ていない。
消極的になってしまう方に、脳はいかない。あえて、愚かになるような仕様になっているのだと思う。
傲慢で愚かでないと、スタートが切れない。その為に、脳はそこだけ愚かに構成している。
なかなかうまく出来ている。
全てが真実に沿って、賢ければ良いワケではない。時には愚かで積極的というのも必要。
見えているから出来るハズだという、愚かさは大切なのだと思う。
それで積極的にスタートが切れる。
見えるは、一部分。愚かな脳が出来ると思って、スタートを切る。スタートさえ切れば、あとはやるしかない。愚かであれの大肯定。