だんぜつ
のちに友になるかもしれない。
味方になってくれるかもしれない。
存在で否定してしまうのは、断絶している。
断絶して、まるで別の存在と考えているから。
過去の恩人だけでなく、未来の恩人になるヒトにも、敬意を払いたい。
とはいえ、未来の恩人など分からない。そう、誰がそうなってくれるか分からないのが、難しい。
誰もがその可能性を持つ。可能性なので、恩人にならないコトもあり得る。
無難なのは、全員に敬意を払うコト。断絶するべきではない。
たとえば思想がまるで違うヒトが居る。
殺し合いになるほど、憎しみ合うコトもありうる。
それは思想上の対立。そこだけの争い。否定はそこだけでイイとなる。
たとえば、水が飲めなくて死にそうなヒトが居たとする。自分は水を持っている。
この時、死にそうなヒトに思想を訊ねるだろうか?もし対立する思想だとして、水を与えないだろうか。
水を与える与えないは、また違う階層の問題。
いろんな考えの階層があり、それを内包しているのがニンゲン。
それは本来しっかりと区別して、整理しておかないとイケない。それなのに、ゴチャッと混ぜてしまっている。
それで存在自体を否定するカタチになる。
コレはそのヒト全体の否定。本当は分けて考えたい所。
対立というがあっても、全否定していいモノではない。部分否定に留めるべき。
一度全否定となると、とことんやっても良いモノと考えがち。でも、それはやり過ぎ。
断絶しているので、とことんやってしまう。まるで別物と考えてしまい、やりすぎてしまう。
でも、まるで別物であるコトは、皆無。そればかりか、ほとんどは同じ。違いは一部のみ。
この極端で短絡的な判断は、脳がしてしまうモノ。それは宗教という、ある意味考えの頂点にあるモノにも見られる。
誰にでも分かるように、宗教はハードルを下げる。その時、短絡的な善と悪を使ってしまう。
宗教で善と悪のような短絡的な発想を使用しているので、それで良しとしてしまう。
善と悪のような、短絡的な断絶は好ましくはない。
善と悪は部分的なモノ。存在ではない。でも、宗教では存在として、使用している。
神や悪魔は、断絶している。それを信じるヒト達も、当然断絶し強硬な否定を当然と考える。
善や悪、神や悪魔はあっても構わない。ただ、それは部分の否定や肯定に収める。
神や悪魔もその行為により、部分的に否定し、部分的に肯定される。
絶対というモノを作ってしまうので、やり過ぎてしまう。ハードルを下げて、分かりやすくはしているが、リスクが高すぎる。
冷静に区別しなければイケない。部分否定に留めて、それ以外は全肯定する。
絶対の神などを作るから、絶対の悪が必要になってしまう。
それでは、ヒトの行動も短絡的になる。安易な断絶をまねき、否定しすぎてしまう。否定しすぎを当然と思ってしまう。
その結果、お互いが神を名乗り、相手を悪魔にするコントを毎回演じるコトになる。
そのコントは、何千年も続いけている。同じコントを、ヒトはずっとやっている。もうそろそろイイのではないか。
それは、絶対のモノを作ってしまったから。分かりやすくする為に、存在の否定を作ってしまったから。
存在は全体。全肯定や全否定。それをやると、神と悪魔のコントが始まる。
全員が神の側の役。そして相手を、悪魔と言っているコント。何ともおマヌケなコントを、何千年も続けている。
否定するべきは部分。未来に恩人になってくれるかもしれないヒトを、全否定してはイケない。
断絶は、全否定。分かりやすくし過ぎた宗教は、修正されるべき。部分対立で、部分否定。突き詰めると、それが結論。