ひはん
役に立っている。
存在も、やっているコトも、悪くない。
批判があっても、役に立っている。
利用しているモノがある。利用しているモノは、必ず役に立っている。
それはなくなると困る、というコト。
でも役に立っているとは、誰も口にしない。それで自分に対して、低い評価を下す。
誰でも出来るコトをしている。特別な能力が、あるワケではない。それで低い評価。
でも、本当は役に立っている。誰でも出来るコトであっても、その役目は必要。
それを担っているだけで、役に立っている。
誰にも出来ないような特別な能力を持っていたとする。それが一人しかいない。すると、そのヒトが死んだ段階でその能力は途絶えてしまう。
それは人類にとって、損失が大きい。とすれば、誰でも出来ないコトを出来る特別な人が、沢山いる世界ほど、失うモノは大きい。
生命として、そんなリスクを選択するだろうか。
リスクは極力小さくしたい。ならば飛び抜けた能力よりも、みんなが出来るようにした方が、リスクは小さい。
とすれば、誰でも出来るというのは、ある意味当然。
重要なのは、その時そこで、必ず誰かがその役目を担っていないと、イケないというコト。
それで高度な社会は、機能している。
全く同じモノだとしても、役に立っている。
人間ではなくモノで考えてみる。商品は同じモノが沢山作られる。
ひとつひとつ特別なモノを、作る方が珍しい。同じモノであるから、使い勝手も良い。
とても役に立っている。同じモノでも、役目を担っているので、とても役に立っている。
特別である必要は無い。
世の中には、沢山の批判がある。ネットの社会では、日常的に渦巻いている。
この批判合戦を、見ない日はない。著名人になると、いろんな方向から批判を受ける。
これは、原因がなくても受ける批判。対象に原因があるわけではなく、批判をする側に原因がある。
つまり批判をしたい。誰かにぶつけるコトで、気分を晴らしている。
受ける側ではなく、浴びせかける側に原因がある。
それが集中する著名人の方は、ご苦労だなと思う。
実質的に原因がある場合の批判なら、解決に向けて努めなければイケない。
そのままならば、批判は強くなる一方。原因は、取り除かなければイケない。
いろんな批判があるが、利用している以上、それは役には立っている。
批判があっても、全否定ではない。どちらかといえば、期待値と現実との差。
合格ラインにあっても、期待値がそれ以上なら批判の対象となる。
たとえ批判があっても、それは全否定ではない。もしも全否定をしてるようならば、批判する側がやり過ぎている。
批判は、一部分の否定。というコトは、改める部分も、一部分だけで良いコトになる。
改めるべき一部分の他は、役に立っている。
ルーズになってしまいがちだが、キッチリと切り分けた方がイイ。
冷静になれば、役に立っているコトの方が、圧倒的に多い。みんな、とても役に立っている。もっと肯定されるべき。
批判は、ルーズ。世界は終わりだなんて、大げさすぎる。自分はダメなんて、的確な判断じゃない。みんな役に立っている。改めるべきは、一部分のみ。