ごじまん
何を買っていたんだろう。
レコードには、ナニかがあった。
レコードを買って、持つコトはちょっとしたご自慢だった。その感覚を、探ってみたい。
今、曲を買う時は、iTunesからダウンロードしている。
これは、曲というモノの中身だけを買っている。中身があればそれだけで足りる。
でも、レコードやCDを買っていた時とは、あきらかにナニかが違う。そのナニかとは、はたして?
中身はあるので、曲を聴くという目的は果たせる。それに、レコードやCDは劣化するが、中身だけであればそれもない。
目的を果たしているならば、ナニか?というのは他に存在するコトになる。
昔は、レコード持っているコトがご自慢だった。
もちろんプレーヤーや針が高価だったという理由もある。
確かにレコードを聴くというのが、贅沢だった。でもその要素を抜いても、ナニかは残る。
さて、ナニかとはなんだろう。
レコードやCDは、自分のお気に入り。自分の好きなヒトの曲を持ちたい。
その自分の好きなヒトの為に、何ができるか。そのヒトが出しているレコードやCDを買うコトは、出来る。
レコードやCDを買った時に、近づけた気がする。
好きなヒトのレコードやCDを持つコトで、そのヒトに近づける。それはこの上ない悦び。
その悦びこそが、ご自慢と感じさせる要素になる。
それはまるで宗教。好きなヒトに依存して、そのヒトに近づきたいと思わせる。
信者達は、ラジオを聴いたり、コンサートに行ったり。同じ時間を共有するコトで、さらに近づけたと確信させる。
他のヒトは知らない。でも自分は知っている。他のヒトは共有していない。でも自分は共有している。
他のヒトは持っていない。でも自分は持っている。
ラジオを聴いたり、コンサートに行くコトで、いろんなコトを知り、時間を共有する。
レコードやCDを持つコトで、他のヒトと差別化を図れる。差別化でより近づける。
ダウンロードしたデジタルデータも、中身はある。でも、依存は出来ない。
モノが無いので、好きなヒトをイメージ出来ないから。ジャケットがないと、イメージし辛い。
もしも画像が付いていたとしても、物質として存在してないと、とても軽くなってしまう。
触るコトが出来ないと、存在感は薄くなってしまう。
存在感が薄くなると、買う側が上位になってしまう。
でも本当は好きなヒトには、自分より絶対的に上位でいて欲しい。
それで、デジタルデータでは、安っぽくて何より裏切ってしまったような、罪悪感がある。
こんな感覚は、将来失われていくモノだろうと思う。両方を知る人間でしか、失われる感覚は分からない。
失われていくモノに、気がつかない。
複製されたレコードやCDと、複製されたデジタルデータ。その存在感にはあきらかに差がある。
媒体の違いで、提供する側と受ける側の関係までが、変化してしまう。
好きだったヒトの信者になる感覚は、これからのヒトには全く分からないだろう。
全てが安っぽく、買う側があきらかに上位になってしまうから。
下手をすると、曲を聴いてヒトを好きになるというコト自体、なくなってしまうかもしれない。
あくまで曲が好きなだけで、そのヒトのファンではないという関係。
上位にある買う側が、選択して自分の小さなプレーヤーに閉じ込めるだけの作業。
それは曲だけであって、イメージが伴わないモノ。私たちが感じていた、好きなヒトに対してのイメージも、薄らいでしまうかもしれない。
技術の進歩というのは、片方で大切なナニかを失ってしまう。そういうありきたりな答えで、今回は締めたい。
ご自慢は、近づき。憧れがあって、近づくタメの行為があった。それは付加されたモノ。中身以外のモノも、実は楽しんでいた。