えすかれーしょん

げいじゅつか

げいじゅつか

職人しかいなかった。

もしくは神事か、芸能か。

日本には近代になるまで、芸術家は存在しなかった。

芸術家は、近代になって輸入された代物。

日本の芸術は、職人としてのプライドとしてそこにある。

芸術家などという、居心地の良いポジションなんて、用意されていない。

あくまで職業として、地味に自分の技術を、磨いていく作業。

職人と芸術家とでは、どういった違いが出てくるのだろう。もしかしたら、失われたモノがあるかもしれない。

現代の職人と、芸術家には、大きな隔たりがある。繋がる所もあるが、何か一線を画している。

職人が作るモノは、何かの一部を担っている。芸術は、それだけで成立して、独立している。

生活の営みの一部となる職人が作ったモノは、主張しない。

あくまで一部として、そこに存在して調和する。

芸術は調和は考えない。独立してそこに存在すればいい。

美術館というのは、調和しないモノを、並べて楽しんでいるのもしれないなと思えてきた。

独立して、調和する必要がないとすると、芸術は神事や芸能に近いのかもしれない。

神事や芸能は、限られた中で独立して存在する。それは芸術と同じ。

すると、日本の中で芸術にあたるのは、神事か芸能になる。

神事に関しては、宗教的な意味を含ませている。

芸術の中にも、宗教的な意味合いが含まれるモノもあるが、それは一部のみ。もっと芸術は広い。

とすると、芸術に一番近いのは、芸能と言えそうな予感がする。

両方とも、芸という文字が付く。芸というのはテクニック。あとは術か、能かの違いだけ。

特別な能力や、訓練された技術を持ち、それを披露する。それが芸能。

いや、芸術も同じ。でも、その披露する範囲がもっと広い。

芸能は限られたスペースの中だけで成立するが、芸術は物理的に可能ならば、スペースに拘らない。

芸術の方が、縛られるモノが少ない分、自由に広がっている。

ヒトは生活しなくちゃイケないから、自分が作り出したモノを、何らかのカタチでお金にする必要がある。

それで日本では、職人や、神事や芸能のカタチになった。

芸術というのは、そこからも独立している。もちろん、芸術にしがみついて生活をしているのも事実。

ただしそれは、芸術が金になるという前例にしがみついているだけで、芸術自体はもっと独立した概念。

概念はあるが、それだけでは存在出来ない純粋なモノに、芸術という名前を付けたと考えられる。

それによって、いろんなモノの中に入っていた芸術的要素が、再認識されてきたというのが、近代だと思う。

芸術の存在により失われたというより、それにより新たに掘り起こされたという方が、適切かもしれない。

ただ、芸術家という表現になると、芸術に少ししがみついている印象になる。

芸術とはあくまで概念なので、芸術家という表現は、恥じなければイケないのかもしれない。

しがみついてはイケないような気がする。そして、芸術自体はどこにでも存在すると、改めて思う。

それだけにそれを生業にした時に、うさん臭くなるのも、当然な気がしてくる。

芸術家は、しがみついている。芸術は生活からも独立した概念なのに、またそれにしがみつく。違和感はそこから来ていた。

-えすかれーしょん