えすかれーしょん

かちけいさんしき

かちけいさんしき

何国人であっても。

本来は同等であるべき。

ヒトの価値計算式は、どうなっているのだろう。同国人と、異国人とで、その価値は違ってしまう。

本来は、同等なハズなのに。そこにどんな価値計算式が、働いているのだろう。

ヒト一人の価値は、同じ。でも、同国人や、家族となると、価値は変わってしまう。

ここで価値が変わるというのは、それなりの計算式に則ってのコトと思われる。

それは足し算なのか、それとも引き算なのだろうか。

スタートの段階は、自分が世界で一番という所から始まる。

人間一人の価値は同じだという考えは、無い。あくまで自分が一番大切。

それは1か0かで、計算式など働く要素がない。

なるほど、スタートは絶対者である自分。それだけ。

とすると、人間一人の価値は同じと考えるコト自体が、間違っているのだろうか。

いや、そんなコトはない。人間一人の価値が同じというのは、とても納得がいく。

社会の中には、立場というモノがあるが、低い場合も高い場合も、それが当てはまるというのは、考え方として頼もしくもある。

つまりは、人間一人の価値が同じという考えであるコトで、不利益を被るコトも無くなるというコト。

それは盾として、または武器として、理性の中に所有するコトになる。

一人の価値が同じと言う考えを、理性の中に所有しても、自分が大切というスタートは変わらない。

自分は大切、自分の子供も自分が反映しているので大切。同様に家族も大切。

そして、生まれ育った地域、国も大切。というように、拡大解釈の方法でしか、価値は見いだせない。

自国人が、他国人より大切という考えも、そこから来る。

つまりは、計算式などではなく、そうとしか考えられないだけ。

傲慢な程に当然のコトとして、そう思っている。

計算式など、入る隙もない。有無を言わさず、遮断されて価値が決まっている。

本来は、理性的に構築された上で、価値は作られるハズ。それが、最初から遮断される。

理性的には理解出来る。でも、強烈に遮断され、価値は固定される。

その隔たりは、重くのし掛かっている。現時点での人間の限界を、示している。

隔たりの決壊。そこを壊せれば、大きな隔たりは消え失せる。

さてさて、どうしたモノか。

理性の上では、人間一人の価値は同じと、理解出来ている。でも、自分を中心とした枠のヒトを、当然のように優遇してしまう。

分断されたその二つを、どう繋げるか。

もともとが、違うルートから出来上がっている。異質な出来の両者。

二つのモノを、繋げる為には、開くコトが条件になる。閉じたままでは、繋げられない。

自分を中心とする考えの自分は、閉じている。こちらを開く。

ヒト一人の価値は同じと言う考えも、閉じている。ならばこちらも開く。

開けば繋げるのは、カンタン。さて、閉じているモノを、どう開かせようか。

閉じるというのは、守りのカタチ。怖さから閉じるというカタチになる。とすると、共通点を提示する。

共通点が提示出来れば、安心感になる。安心感があれば、閉じる必要がなくなる。

その共通点とはなんだろう。おそらく相手も、自分を中心に考える、閉じたヒトであると示すコト。

誰しも、閉じたヒトであるというコトを示すというのが、鍵になる。

その鍵を使えば、開かないヒトはいない。大きな隔たりがあっても、その隔たりを越えるコトが、容易になる。

みんな閉じている。その共通点を含めるコトで、新たな価値の計算式が生まれる。安心の要素で激変する。

価値計算式は、激変させるべき。みんな閉じているという共通点は、大いなる安心。その鍵を使って、現時点でのヒトの限界を破壊する。

-えすかれーしょん