げんじつ
若い自分。
トシを取った自分。
今現在の、自分が現実。でも、自分が描く自分像は、すこしズレる。
現実というのは、1秒毎で変化している。何もかもが変化しているが、いちいち気にはしていられない。
強ければ強い程、そんなモノを気にする必要は無い。生きたいように、生きるだけ。
そうやって生きていると、いつの間にやら、描いている自分像と、現実との差が大きくなる。
現実を認めたくないという現象に、陥る。
でも現実なのだ。
結局本当の意味で、自分というモノを、そんなに確認していない。
自分が描いた自分を、自分と思い込んでいる。
それで本当の自分を認識した時、愕然としてしまう。
ずいぶん美化していたんだと、気づく。
自分の中の自分と、現実の自分。自分の中の世界と、現実の世界。この隔たり。
無責任でいられる内は、自分の中の世界だけを見れば良いけれど、ある程度責任ある立場になると、そうも言っていられない。
現実の世界に、向き合わざるをえなくなる。
トシを重ねる毎に、その傾向は強くなる。
とすると、自分の中で作られた世界に浸っていられるのは、猶予期間なのだろうか。
いきなり現実では厳しいので、猶予期間を与えられて、少しずつ受け入れられる素地を作っておく。
いや、トシを取ってからも、若い時の自分像を見続けている。
一生幻想の中で、現実との隔たりを感じながら、生きている。
それだけ現実は嫌だし、現実だけではげんなりする。
幻想の自分を見ながら、現実の自分を忘れて、振る舞うというのも必要なのかもしれない。
現実通りに生きる必要は無い。
幻想と現実の差が、進むべき方向と、そこまで辿りつく、原動力になっているのかもしれない。
空を舞う幻想と、重いカラダの現実。でも、空を舞えるからこそ、生きて行こうと思える。
重いカラダだけを感じていたら、それはまるで奴隷。生き様は奴隷ではない。奴隷とは思いたくもない。
現実は重たい。美化された自由な幻想と、現実の差で生きられる。一つの人生でも、二つの世界を生きている。