かっぱ
科学だと思っていた。
このブログの内容。
でもこのブログの内容は、科学とは言えない。カッパと大して違いはない。
科学と言えるモノには、客観的な裏付けがいる。
このブログは主体的に、書かれすぎている。科学になれるワケがない。
まるで幻想的で、おとぎ話や寓話と同じ。カッパと何一つ違わない。
書き手は科学のつもりなのに、実際はただの作り話の域を出ない。そんなマヌケな状況。
では、このブログを科学にしたい場合、どうすればイイのだろうか。
主体的に書かれているこのブログと、科学とでは、大きな隔たりがある。
この隔たりを、埋めていかなければイケない。
客観的な裏付け。それによって科学になる。では、客観的な裏付けが、まだ無い時の科学はどうだろう。
客観的な裏付けがないので、まだ科学とは言えない。そのヒトの頭の中だけでは、幻想に過ぎない。
科学と言っても、最初はカッパと変わらない。このブログも、科学の初期段階も、カッパと変わらない。
科学は、キリスト教徒の戦いの歴史。
キリスト教も、幻想でカッパと変わらない。絶大なチカラを持つキリスト教に勝つ為に、科学は客観的な裏付けで対抗した。
それで、キリスト教に勝ち、現在では共存している。
科学とキリスト教での、勢力争いが過去にあった。それで、客観的な裏付けが不可欠になっていた。
このブログ内容は、否定されるコトはない。恵まれていると言えば、恵まれている。
現在の科学の最初は、命がけだった。そこからひとつひとつ、確立して現在に至っている。
このブログも、命がけで科学にしていかないとイケないのかもしれない。
一応人生は懸けているつもりだが、命がけかと言えば、そこまでではない。とても気楽にやっている。
命がけにして、客観的な裏付けづくりを、していくしかないかもしれない。
そんなコトが果たして出来るのだろうか。
客観的な裏付け、それを助ける道具づくり。道具がなければ、何も出来ない。
自分にそんな道具が作れるのだろうか。さてどんな道具を作るか。
単純に、自分の無力さを知らされる。でも、科学の初期段階のヒト達も、そうだったのだろう。
それを乗り越えて、彼らは戦ってきたのだろう。
彼らと比べると、自分はただ遊んでいるに過ぎないコトを、認識する。
カッパのままで居るか、科学への道を歩むか。隔たりは、大きすぎる。
道具は作れないにしろ、科学には辿り着けないにしろ、歩み出そうとはしてみたい。
方法はあるハズ。情報というカッパから、客観的な現実に。
迷わず行けよ。行けば分かるさ〜。バカヤロ〜!!この件に関しては、追って報告していきたい。
カッパは幻想。現代は、命がけで幻想を現実にしてきたヒト達によって、造られてきた。自分も、何かやってみるか。