もじのないせかい
それでも、社会は成り立つ。
しゃべり言葉は、あるから。
文字のない社会が、過去に存在した。文字によって、何を得て、何を失ったのか。
日本も、中国から頂戴するまでは、文字というモノは存在しなかった。
文字のない世界にいた。
そこから中国文字をそのまま使い、中国語にない日本言葉を補う為に、カタカナひらがなが開発される。
それで、日本の漢字仮名交じりの、スタイルになった。
もともと文字など無かった。それでも、やっていけてた。社会というのは、それでも成立していけるというコト。
文字のない世界というのは、どんなモノだろう。
文字が無いので、何かを伝える時には、文字に頼るコトは出来ない。
とすると、声で直接か、実際に身振り手振りで伝える必要がある。
これは現代でも、おそらく未来でも行われる方法。
その場にいるならば、文字というまどろっこしいモノではなく、直接の方が都合が良い。
直接ならば、相手の反応を見ながら、説明を変えるコトも出来る。
声と実演とで、確認しながら伝えるコトが出来る。
ただ、文字が無いとすると、制約もある。その場にいなければならない。
文字は歳を取らないが、ヒトは歳を取る。そのヒトの存在は、そのヒトの寿命が来るまで。
亡くなれば、言い伝えの中でしか存在せず、言い伝えさえ消えてしまえば、居なかったコトになってしまう。
文字は歳を取らない。ヒトではないので、遠くに持ち運ぶコトや、同じ内容をいくつも複製するコトも出来る。
分身として遠く離れた所にも、かなり先の未来にも行くコトが出来る。
それが文字の特性。ただ、ヒトそのモノではないので、気をつけなければイケない。
あくまで文字というのは、仮のモノ。そのヒトの分身であり、加工品にすぎない。
本来なら、そのヒトが直接実演した方が良いに決まっている。
なぜなら文字に加工する時に、制約がある。文字化、文章化の時に、上手や下手が存在してしまう。
上手ならば、物事の核をとらえ、相手に重要な所を伝えられるが、下手ならば重要な箇所を外してしまう危険もある。
その為に、文字の場合仲介役が、必要になる。文字で不足する分を、補足する役割。
教師などはそれに当たる。文字だけでは、どうしても不足する。その部分を補足している。
文字はあくまで加工品。確かに腐らないが、それだけで充分とは言えない。
ネットの社会も、文字文化。とすると、このブログの内容も、ちゃんと伝わっているか、少し不安になる。
文字に頼りすぎるのも、よくない。どうしても、文字が万能のように思えてしまうが、まるで違う。
文字はそれだけでは、成立しない。あくまで便利な道具でしかない。
それよりも直接、ヒトとヒトの方が、その空気感や意志、眼差しでの集中の箇所、呼吸なども感じられる。
実に多くの情報を、文字では伝えきれずに捨てている。
文字のない世界の方が、生身である分、多くの情報をやり取りしている。
もしかすると、そちらの方が物事はシッカリと伝わっているのかもしれない。やり取りとしては、濃厚なのかもしれない。
文字という間接的な道具が含まれない世界の方が、ヒトとヒトは濃厚に結びついていたのかとも思う。
そして、相手が何を求めるか、それを感じ取る能力も長けていたかもしれない。
一日が、文字から始まるコトはなく、ヒトとの関係は声から始まる。シッカリと対面して、感じ取りながら、進めていく。
文字が無くても、けっこう豊かな世界なのだろうと、想像出来る。
影響を与えられる世界は、今よりずっと小さいだろうけど、もっと周りを感じている。
自然を感じながら、自然と共に生きる。おそらくヒトも自然も近い所にある。
なぜなら文字というのは、ヒトだけが使う道具。自然が文字を使うコトはない。
文字が無い世界は、自然とヒトとの区別が、今よりも少ないと考えられる。
そして、もっと存在を感じられる世界。情報という存在しないモノが、幅を利かす現代とは違う。
全ては存在するモノ。呼吸をするモノ。ヒトもその中の一部。
文字は呼吸しない。情報も呼吸しない。現代人は呼吸しないモノの一部。
異質なモノの一部として、存在する。それでは、息苦しくもなる。
文字のない世界から、文字のある世界に来ると、息苦しくなるのかもしれない。
現代これだけの情報社会。呼吸をしない世界に囲まれ、ヒトもその一部。
感じるよりも、処理をし続けるコトを求められている。それで大丈夫だろうか。
少し、やり過ぎ
のような世界に生きている。それが普通と思っていたが、現代は異常かもしれない。
文字のない世界は、健全。呼吸するモノと共に、感じながら生きていける。文字や情報というヒトの分身は、呼吸をしない、異物。