えろ
盛り上がる。
身近に感じる。
エロというのは、ヒトの距離を縮めてくれる。
エロ話をする。なぜかとても盛り上がる。
そして、その瞬間、とても距離が縮まる。
いつもは苦手だと感じていたり、距離があるヒトでも、親しみを得るコトが出来る。
社会的立場や、普段の感情を越えて、エロが何かの作用で、ヒトの距離を縮めている。
このエロの効果とは、なんだろう。
同性間だけでなく、異性間ならばなおさら、距離を縮め親しくなれる。
まるで引力のように、いつの間にか近づいている。
しかも、距離だけではなくて、とても高揚している。
盛り上がって、楽しいという感情を伴う。なぜこれほど高揚するのだろうか。
エロというのは、とても恥ずかしい。
恥ずかしい部分は隠したい。とするとエロいうのは、日常生活では隠される、秘めゴト。
秘めゴトを持ったまま、日常生活は営まれる。その秘めゴトを共有する時、いろんな効果が現れる。
秘めているのは、よりプライベート。プライベートの共有と言い換えても良い。
プライベートは自分の中の世界。それを共有するので、親しくもなるし、身内意識も出てくる。
つまりはエロ話を始めた段階で、もう距離はなく、それぞれの自分の中の世界が繋がっていってる。
では、高揚して楽しい感覚はどうだろう。
自分の中の秘められた世界。それを出す時、そして受ける時、罪悪感と安心感を同時に味わうコトになる。
自分だけの世界を、他のヒトと共有して良いモノか。これは自分だけの感覚ではなかったんだ。
そういう、罪悪感と、安心感を同時に得ている。罪悪感は後ろめたいモノ。
それだけに緊張し、鼓動は早く、発汗も促される。そして同時に安心感。
恥ずかしいが、悪いワケではない。後ろめたいが、危険ではない。どちらかというと当然のコト。
その緊張感と安心感が、高揚をし楽しいと感じさせる。嬉し恥ずかし現象。
あえて秘めゴトのような、自分だけの空間を作った方が、身内意識は強くなる。
罪悪感の共有は、ヒトの距離を縮め、仲間という気持ちにさせる。
そして、そんなに恥ずかしいコトを話してくれたというのは、弱い部分を見せてくれたコトにも繋がる。
そのヒトを、信頼する要因にもなる。
もちろんエロというのは、生命にとって重要な要素の一つ。
より優秀で強い子孫を存在させ続ける為には、無くてはならない要素。
ただ、ヒトのそれは機械的ではない。
恥ずかしいという感情や、罪悪感などが含まれるコトによって、より高度な効果を生み出している。
機械的なモノに、恥ずかしいや、罪悪感などを含めるコトでエロになる。
エロというのは、じつはかなり高度な仕掛けによって、成り立っているコトが分かる。
獲物を襲って食べればいい動物とは違い、社会構造を構築して生きて行く人間。
あまりに欲望のまま、性的行為を行えば、社会は崩壊する。それを防ぐタメの罪悪感。
その罪悪感が、より親密にヒトを近づけるという、副産物を生んだのかもしれない。
それは偶然であっても、仕掛けられたモノであっても、高度な仕組みであるコトには違いない。
ヒトの深さを、また知った気がする。
エロは、高度。色んな要素が含まれ、機械的から脱却している。エロの世界は、複雑でとても良くできている。