やま
眺めるとナニかが変わる。
景色。その効用は、確実にある。
山を見るだけで、心持ちは変わる。その大きな存在の前で、呼吸は深くなる。
山は大きい。山を見るというのは、その山と対峙するコト。
対象物から考えて、山はとてもつもなく大きい。普段味わうコトの出来ないスケール。
そのスケールのモノと対峙すると、ある時から、全てをとらえようとするコトを、諦める。
と同時に、意識の一部が山に吸い込まれるように、山の呼吸と同化していく。
私たちは普段、早く早く動いてしまう。でも、山は動かない。のんびりを越えて、全く動かない。
その動かないモノと、同化して呼吸が深くなる。
普段の生活の中で、相手をしている文字などはとても小さい。
一文字が連続して、一つの文章を結ぶ。その文字ひとつひとつは、人間が支配しやすいようにとても小さい。
それを高速で拾い上げて、理解していく。高速になるほど、呼吸をする余地は削られ、浅くなってしまう。
もしも、山のように大きい文字を作ったとすると、呼吸は深くなるのだろうか。
山のように圧倒的に大きい文字。それを見ると、呼吸は深くなっていくだろうか。
確かに雄大さはある。その点では、呼吸も多少深くなるかもしれない。でも何か足りない。
おそらく生命感。
山には数え切れないほどの、生命が住んでいる。その生命達が、それぞれ呼吸というリズムを刻む。
そのスピードは、それぞれ違う。いろんなリズムで、呼吸している。
人工物には、生命感はない。呼吸もしていない。
どんなに大きくしても、吸い込まれるような、疎通は生まれない。
山に吸い込まれるような疎通は、山に住む生命達のリズムが、生み出すモノ。
その生命感を感じて、自分も吸い込まれていく。
普段、社会の道具として生きている自分が、山に吸い込まれて、生命に戻るコトが出来る。
なぜ山に登るのか。「そこに山があるから。」間違いではないと思うが、おそらく吸い込まれている。
山の一部になり、生命に戻るコトを求めている。
逆に標高が高すぎて、生命がいない山はどうだろう。そこに生命感はない。
それでも登ろうとするのは、どうしてだろう。おそらく意味は無い。ただ、頂上に立ちたいだけ。
上空から見たいのであれば、飛行機でも気球でも乗って見れば済む。
頂上に立ちたいのは、どちらかというといやらしい、ヒトらしい考え。
山は生命に出逢い、生命に戻るトコロ。沢山の仲間達がいる、故郷。
なので山には入ったら、感じた方がイイ。頂上を目指すべきではない。
立ち止まって、声を聴き、呼吸をし、生命感を感じる。
頂上へ行きたいのなら、ロープウェイで充分。
体を鍛えたいヒトだけ、自力で立ち止まらず山を登ればいい。
山は、生命に囲まれ、それが充満している所。ヒトの社会では、それが疎かになっている。
都会の中にも、探せば生命は多い。立ち止まって、感じてみるだけでも、呼吸は深くなるかもしれない。
生命は不思議と思う。勝手にそれぞれ生きているのに、感じ合える。生命でない物質とは違う、ナニかがある。
山はそれが充満している場所。感じるのは記憶。取り戻すのはリズム。動かず、受け止めてくれる。
山は、生命の集合体。それぞれの命のリズムで、充満している。どんなに偉くなった所で、イチ生命という事実からは、逃れられない。