えすかれーしょん

にゅーす

にゅーす

どうして見る。

自分とは関係ない。

なんで、ニュースを見るのだろう。

流れて行くニュースを、ごく自然に見ている。そのコトに、ナニも疑いを感じない。

おそらく、ニュースを見るコトが出来るようになったのは、最近のコト。

昔は、他の国の出来事など、まるで伝わらなかった。自国の中の情報も、得るコトは出来なかった。

情報網の発達と共に、少しずつ、遠くで起こったコトが、伝わるようになってきた。

それは、野次馬的な感覚だろうか。

自分の生活とは、直接関係のない情報でも、とても欲しがる。

その情報を見て、ナニを感じているのだろう。

他人ゴトとするか、自分のコトと考えるか。まず、この二つに分かれる。

自分の経験により、自分のコトとしてとらえられるかは、決まってくる。

自分のコトとしてとらえたならば、同じような状況にならないように、意識をする。

もしくは、同じような災難がおとずれた時、対応できる。

それならば、ニュースという情報は、とても役に立つ。

でももしも、何も自分が変わらないとすると、どうだろう。なんの役に立つのだろう。

まさか自分がなるなんて。ニュースを見ていて、たまに聞く表現。

自分の身に起こるとは、まるで考えていなかった証拠。

結局、ナニか映画のような、娯楽の一つとしてニュースを見ているのかもしれない。

ニュースもバラエティととらえている。なるほど、否定できない。

とすると、ニュースの意味は薄れる。無くてもイイのかもしれない。

現実味が確保されていない。映像としての現実味はある。ただ、自分に起きるかというと、その感覚は薄い。

勝手に流れてくるニュース。それを見ている自分。

毎日、それなりにいろんなコトが起きている。それを確認している。

確認して、ナニをしているのだろう。多分そこがまるで無い。

視聴者側に委ねられた、その部分がまるで無い。それでニュースの意味もなくなる。

受け手の責務を果たしていない。

ニュースを見ても、何が出来るというコトはない。それでも、受け手としての責務がある。

コレを考えても、良い時期かもしれない。受け手の責務とはなんだろう。

ニュースから流れてくるモノは、ほぼ、自分ではなく他人。自分とほぼ無関係のヒト。

だからといって、他人ゴトでは、いけないような気がする。自分のコトとして、考える。

あまりに背負いすぎてもいけないが、ほんの少しは、自分のコトとしてとらえていく。それが受け手の責務。

ニュースを娯楽と、とらえてしまっていたのかもしれない。

ニュースは、自分。バラエティショーではなく、現実に起こっているコト。もしも自分の身に・・・を、その目線でとらえたい。

-えすかれーしょん