たんさいぼう
限界がある。
その限界は、当然のモノ。
限界が分からず、全てを自分でやろうとするのが、単細胞生物。
自分で全てを背負い込み、良い結果も出ない。それを嘆いている。
多細胞生物は、自分の役割を果たす。単細胞の頃の限界を遙かに超え、より大きなコトが可能になる。
多細胞生物は、自分がそのひと欠片であるコトに、プライドを持つ。
最初から、多細胞である意識で、臨んでいるんだろうと思う。
単細胞は、一つの細胞で全てをやろうとするので、大きくはなれない。
確かに一つの細胞だけで見れば、多細胞に比べて有能で、大きいかもしれない。
だとしても、それは細胞一つで見た場合。全体となると、多細胞の大きさに、とてもかなわない。
何でも一人でやろうとする。単細胞は、限界を超えようと必死にやる。
それが求められる時も、あるかもしれない。でもそれは、濁すコトしかできない。
沢山が作る流れを、乱すコトしかできない。
多細胞の意識を持って、自分の役割を、見いだすのが好ましい。
難しいのは、役目を担ったら、そこでは大いにチカラを発揮すべきというコト。
その中では、自分が出す結果に対して、プライドを持つというコト。
この兼ね合いが難しい。なぜなら、ダレも教えてくれない。しかも、ずっと同じ役目とは限らない。
いつ、どっちの方向に流れていくか、まるで決まっていない。
それが1個体の生物と、人間社会との違い。
人間社会の方が、ルーズであり、いろんな方向に行く、余地が残されていく。
それは、多細胞型でいくのか、単細胞型でいくのか、選択をせまられるコトにもなる。
ナニも決まっていない。つまり正解はない。
ただ、多細胞の方が、大きいコトが出来るというのは、確かなコト。
そして単細胞の方が、一つあたりで見ると有能で、大きいというコト。
良いとこ取りをするならば、多細胞の中で、単細胞的に生きる。というやり方になるかもしれない。
他のヒトの邪魔をしないし、他の人に任せもするが、自らも全て出来るように、準備し磨いておく。となる。
コレはやはりとても難しい。能力的に可能でも、自分が出来るコトを、人に任せるというのが案外難しい。
その割り切り。単細胞として、全てを自分でやろうと努力し、多細胞の意識で割り切り、任せる。
自分を見ながら、全体も見ていく。
全体の中の一つ。自分という存在。そして周りのヒトも同じ。
自分を見るのは難しいが、それは他のヒトも同じ。全体を見て、自分も見る。
答えは決まっていない。でも、自分はひと欠片であり、やろうと思えば全部も出来る。その余地だけはある、というコト。
単細胞は、やり過ぎる。全部を限界を超えやろうとする意識と、全体の中のひと欠片として、任す割り切り。全体を見て、自分を決めていく。