えすかれーしょん

いぞん

いぞん

どうしようもないコト。

どうにもならないコト。

どうにもならないコトが沢山ある世の中では、依存というのもしょうがないと、思えてきている。

以前から、このブログで依存を否定してきたけど、それは少し間違っていたかもしれない。

不確定要素も多いし、どうやったって乗り越えられないコトも多い。

ナニかに依存する体質も、場合によっては必要なコトだと、言える。

悪質にならなければ、依存はどれだけしても構わない。

ただ、依存している相手が悪質な方に行けば、おのずと染まってしまう。

まるで意識するコトなく、気づかないまま引きずり込まれる。

依存は運命を共にするコトなので、引きずり込まれる危険性は、どの時も口を開けて待っている。

さらには依存しすぎて、普段の生活に支障をきたす危険もある。

普段の生活には、支障をきたしてはいけない。

そこまでの依存なら、やはり否定する。

依存はしても、どこかは冷静でないといけない。とても難しいコト。

依存するコトによって、無責任でいられる。任せてしまうので、その部分はOFFに出来る。

全く依存しないとなると、全てにおいて責任を取る必要がある。必要無い所まで、気になって仕方がない。

やはりどこかしら依存して、OFFにしないと体調を崩してしまう。

どれをONにして、どれをOFFにするか。それが依存と大きく関わる。

自分の手に負えないモノ。それは依存したいモノ。

それを背負ってくれる存在があれば、そこに依存する。

でも戦うモノは、依存しない。自分でなんとか出来ると思っているから。

それで依存を否定する。依存は放棄であり、諦めだから。

その2者の違い。どちらも正解だけれども、依存する他人を否定しなくても良い。

依存するか戦うかは、本人の問題。依存しすぎて、生活に支障をきたしていない限り、他人が口を挟む必要はない。

手に負えないコトを抱えすぎると、生活に支障をきたすコトもある。

依存して、生活が上手くいくならば、それの方がイイ。重要なのは、日々の生活。

その為のお役立ちグッズとして、依存がある。

依存される側も、自分がお役立ちグッズだと、自覚した方がイイ。

ただ利用されているだけ。それでも良しと、覚悟して割り切る。損な役回りを、良しとする。慈善活動。

そう考えると、生活の中での依存は、慈善活動かもしれない。

普段の生活の中で、慈善活動は溢れている。

親子関係も、親は慈善活動をしているのかもしれない。

いろんな場面で、慈善活動は、人知れず行われている。

依存のし合いは、慈善活動のし合いっこでもある。

依存を否定してしまうのは、その慈善活動も否定してしまうコト。

確かにそれはやり過ぎだし、良いコトまで否定してしまうので、するべきではないというコトになる。

ペットの犬や猫も、エサを貰っているとはいえ、慈善活動かもしれない。

飼い主をあれだけ甘えさせている。大変な仕事。となると、植物なども酸素を出して、慈善活動をしているのか。

当人も気づかぬうちに、依存はあり、慈善活動もしている。探せばまだまだあるかもしれない。依存の世界も、案外深い。

依存は、おまかせ。依存されるコトは、慈善活動。この世界に、慈善活動は溢れている。自分が大きくなれたのも、見えない沢山の慈善活動があったから。

-えすかれーしょん