えすかれーしょん

あし

あし

意味合いが、ちょっと変わる。

手でやるのか、それとも。

モノを動かす時、足でやるのか、手でやるのかで、意味合いが違ってくる。

結果は同じ。だけれども、あきらかにナニかが違う。その違いを、また探ってみたい。

足を使う場合。手を使う場合。片手でやる場合。両手でやる場合。雑にやる場合。丁寧にやる場合。

同じ行動なのに、いろいろとある。

ヒトでは分かり難いので、ロボットで考えてみる。

ロボットに動きをプログラミングするとして、足と手とで、どこが違ってくるのだろう。

足で動かす場合は、片足を上げてバランスを取る。そのまま、足を移動させモノを動かす。

手の時は、上体を折り曲げ、必要ならば膝も曲げ、手で掴んでモノを動かしていく。

手で動かす方は、上体を曲げなければいけないし、膝も曲げないといけない。

対象物に目を近づけるし、最終的に手で掴むという動作になる。

おそらくロボットにさせる時でも、足よりも手の方が、複雑なプログラムになるコトは、予想出来る。

同じ結果であっても、自分がその為にどれだけ、手間をかけるか。その自分の行為が、重要な予感がする。

モノの立場から見る。動かされるとして、足でどかされるのと、手で動かされるのと、どう考えても後者の方がイイ。

足でどかされるのは、否定されている気分になる。手で動かされるのは、必要性があっての移動という納得がある。

足と手の違いだけれども、モノの立場で見ると、否定の行動に映るのが分かる。

手でモノを動かした方が、モノへの尊重が含まれるとも言える。

尊重が含まれる行為は、相手の納得を生みやすいという、結構深い本質まで、一気に辿りついた気がする。

雑に扱うか、丁寧に扱うかというのも、対象に尊重があるかどうかの違い。

片手で行うか、両手で行うかはどうだろう。

両手の方が、より尊重が含まれるような気がする。

否定から、尊重まで、ヒトの行動によって、対象が受ける印象はまるで違ってくる。

自身はどうだろう。雑にやるのと、尊重するのと。

結果は同じでも、心持ちはあきらかに違う。雑で否定してしまう方は、心持ちも粗暴になる。

丁寧に尊重を含めて行動すると、心持ちも穏やかになる。う〜ん。なぜだろう。

モノは、何も言わない。何も言わなくても、確実に存在している。

存在している全てのモノは、原子で出来ている。そう考えれば、何も言わないモノも、ニンゲンも違いはない。

モノといっても、原子レベルなら家族のような存在。ニンゲンだけが、偉いワケではない。

さらに心のさらに奥が、エゴを越えた他者の世界だとすると、尊重する行為は、そこに抗わない。

どんな存在にも抗うコトなく、否定しない。とすれば、自分の心の奥にある存在と、ぶつかり合うコトもない。

その結果、心が穏やかで居続けられるというのも、納得いく。

足でやるか、手でやるかの違い。であっても、その意味合いはまるで違う。

自分が君臨しようとして弧になるか、それとも尊重して穏やかにすごすか。結局、自分で決められる。

足では、否定。全てのモノが、原子レベルでは家族。尊重して丁寧にした方が、穏やかでいられる。足でどかしてたコトを、深く反省。

-えすかれーしょん