たいせつなもの
教科書では、削られる。
どうやって、そこに辿りついたのか。
ご存じの通り、このブログはとても読みにくい。その理由の一つが、大切なモノを削りたくない、というモノ。
もしも推敲や清書をしたなら、もっと読みやすくはなる。
でも、その段階で失われてしまうモノも大きい。
キレイな物は、無駄や余計なモノを取り除いた状態にある。
とてもスッキリとして、心地良い状態。
でもそれは表面であって、そこまでのルートは全て削られている。
まるで最初からそこにあったような、生まれつきそうだったように振る舞う。
でも、そんなコトはあり得ない。そこに行き着くまで、迷いや試行錯誤をくり返したに違いない。
私は、その迷いや試行錯誤を、大切なモノと考える。
今生活しているこの文明は、先人達が造ってきたモノの上に成り立っている。
そこには、迷いや試行錯誤があるはずだが、私たちがそれを感じるコトはない。
あたかも最初からそこに存在するように、当然のモノとして理解している。
見渡せば、人工物ばかり。その人工物ひとつひとつのカタチは、最初からそのカタチではない。
その中に、先人達の努力や工夫が詰め込まれている。
それはとても大切なモノで、ありがたいと位置づけたい。
私たちが、先人を踏み台にして、ふんぞり返って生きているように、未来のヒト達も我々を踏み台に、ふんぞり返って生きていくコトと思う。
それは今までヒトがしてきたコトだから、これからもそうしていくと、簡単に予想がつく。
それはそれで構わないので、ほんのわずかでも、生活しているひとつひとつに、先人の想いが込められていると、知って欲しい。
その想いに囲まれて、生きていると気づいて欲しい。
未来のヒト達には、そう願う。と同時に、現代の私たちも、先人の想いに囲まれていると、感じたい。
物言わぬ先人達。
私たちは、未来の子供たちには、幸せであって欲しいとおぼろげながらも、思っているハズ。
先人達も、現代の私たちに、同じコトを望んでいたハズ。
であるならば、やはり先人達が造ったモノには、全て想いが入り込んでいると考えて、間違いはない。
沢山あるルートの中で、最短距離だけが、未来に伝えられる。
でも、道に迷ったり、転んだり、ふりだしに戻ったり、本当はいろんな困難があったハズ。
それは伝えられない。未来には残らない。
このブログは、あえて(?)迷うそのままを、残してある。それを大切なモノと思っているから。
一つの答えを捻り出すまでに、どれだけ迷って、行ったり来たりして、どう発想して、どういう手順でをくり返しているか。
それを知ってもらいたいから。
ヒトの営みの中で、それは日常的にくり返されているモノ。でも未来には残らない。
未来に残るのは、推敲され、清書されたキレイな物だけ。
無駄なモノ、余計なモノは、削られる。その人の想いも、削られて消えてなくなってしまう。
それは大切なモノ。未来には大切なモノが伝わらない。それでイイのだろうか。
私は、それは悲しいコトだと感じる。なので、余計な途中も、このブログの構成要素にしている。
どれだけ先人の知恵に包まれて、我々は生きているのか。その想いは消えてしまっているが、想像すれば復活する。
その復活させたイメージの中で、一日ぐらい過ごすのも悪くない。
大切なモノは、残らない。イメージだけでも、先人の想いに包まれていると、思う日をつくる。先人は、うざいくらいありがたい。