じゆうけんきゅう
せっかくなので。
昨日に引き続き、夏休みの宿題。
自由研究というのも、かなりイヤな思い出としてある。そこに潜ってみる。
読書感想文ほどではないにしろ、自由研究というのも、やり方がイマイチ分からない。
やり方が分からないというよりも、落とし所が分からないといった方が、正しいかもしれない。
そして、何をしてイイのか、広すぎて分からないというコトもある。
題材を考える間に、夏休みはほとんど終わってしまっているなんてコトが、大半だった。
もしも今、自由研究をしろといっても、さほど変わらない。何をやるか、どうやってやるかで、一日一日過ぎていく。
大人であっても、難しい。経験が少ない子供ならば、なおさら分からなくなる。
くせ者なのは、発表しないとイケないというコト。それが、最初から最後まで、つきまとう。
期限が決められて、その日まで終わらせる。
研究というのは、答えが出てから発表するのが、当然の順序。
でも夏休みの宿題である自由研究は、期限が決められている。こんな研究は、大人でも無理と言える。
読書感想文もそうだが、自由研究というのも、無理というモノが出てきた。
どうも、夏休みの宿題というのは、子供たちに無理を強いている。
研究というのは、とても楽しいモノ。大人であっても、研究者達は、それなりに楽しんでやっている。
でも子供たちは、〆切りがあり、〆切りに合わせて内容を決めなければならず、結果ありきたりなモノで、お茶を濁すコトになる。
もちろんそんなモノでは、楽しめない。そんなモノ研究とも言えず、こなすだけの作業となる。
本来は、未知のモノを解明する為に、研究というのはある。
ただそこに、答えがあるという保障はない。どんなに研究しても、分からなかったり、答えなどない可能性もある。
それでもあると信じて、立ち向かっていくのが、研究。そして研究者。
〆切りに合わせて、適当に見繕うのは、研究でもなければ、研究者でもない。楽しくないのは当たり前。
ただ、自由研究という言葉や方向自体は、悪いモノとは思わない。
興味を持ったモノに、触れたり、聴いたり、ニオイを嗅いだりするコトは、悪くはない。
興味を持ったモノに、どれだけ近づけるか。そしてそのウラ側にまで迫れるか。
どうしてなんだろうという疑問が出たら、それを考え、自分なりの答えを出す。
その答えが正しいのか、可能な限り調べていく。
自分の中にも、興味あるコトはいろいろとある。出来るだけ他のヒトとかぶらないコトを念頭に置き、調べてまとめ上げる。
興味あるモノなので、おそらくゴールはない。途中の段階でも構わない。
自分なりの解釈を加え、そして分からなかった疑問はそのままに、報告する。
読書感想文も報告だったが、自由研究も、結局報告になってしまった。
おそらく報告であれば、そのまま出すだけでイイ。それが無理のない、ウソのないカタチになるのだと思う。
無理を強いていたモノが、報告にするコトで、そこから解放されるのだと思う。
興味を持つモノの、報告会。であるならば、子供たちでも、問題なくできる。
極力触って、極力聴いて、極力ニオイを嗅ぐ。こういうコトが出来るのは、人工物ではなく、自然のモノが多い。
必要ならば、自然のモノでと言う縛りくらいは、つけてもイイと思う。それは地域性もあるので、それぞれの先生におまかせする。
結局自由研究自体は、悪ではない。コレもまた先生達の不備。
いろんなモノに興味を持って、それに少しだけ近づいてみる。いろんな方向から見る。
どうしてそうなのか考える。分からなければそのまま報告する。それで良い。
研究の手前ぐらいだが、〆切りがあるのでコレで充分。必要ならば、次の年も継続すればいい。
自由研究は、近づき。興味を持ったモノを、様々な方法で確認し、自分の解釈を加える。そのモノを、愛していく作業。