どくしょかんそうぶん
良い思い出はない。
子供の頃、分からなかったそれは、大人になっても分からない。
夏休みの代表格、読書感想文。この奇妙な宿題を、掘ってみる。
読書感想文、という宿題がある。子供たちにとって、夏休み恒例の、地獄の呪縛。
何が呪縛かといえば、どう書いてイイのか、やり方が分からないというコト。それに尽きる。
なぜか、夏休みの宿題にだけ存在し、大人の世界では存在しないのだろう。
批評文や紹介文というのはあるが、大人の世界に感想文など、見たコトがない。
本を読めたとしても、さてその感想を文にするとなると、非常に困難になる。
なぜなら、感想というのは、本来非常に短い。一言、二言、で終わるのが普通のモノ。
それを原稿用紙3枚以上などという縛りを付けられては、どうしてイイのか分からなくなるのは当然。
ではなぜ、感想というのは短いのだろう。長い感想というのが、あっても良いような物。
感じたモノを、言葉に表したモノを、感想というのだと思う。この感じるというのは、ほんの一瞬。
連続したとしても、感じているのは一瞬だけ。とすると、それを言葉にしても、長いものにはならない。
長い感想など、あり得ない。
短い感想を、長くしようとすれば、その場その場での感想を、継ぎ足していくしかない。
もしくは、何らかの方法で、水増しをしていく。
大人であれば、水増しというのは出来る。それなりにテクニックも身につき、経験をして世界も広がっている。
よそから要素を持ってきて、そこにハメ込む事で、水増しは可能と言える。
でも子供は経験が少ない。世界も知らない。よそから持ってくるなど出来ない。
とすると、子供にとっては、非常に困難な状況に置かれる。もともとかなり無理があると言ってイイ。
感想は短い。本全体の感想だけでは、一言で終わってしまう。とすると、やはり場面場面で感想をつぎはぎするしかない。
コレも順番を変えたり、前フリや、焦らしなどを加えれば、それなりに読めると思うが、子供にそんなテクニックはない。
子供に出来るコトがあるとすれば、その話の中で一番重要な所を探し、その感想を中心に感想を継ぎ足していくというくらい。
それを感想文とするしかない。
学校の先生にしてみると、子供たちに本を読ませるのが狙いだと思う。
本を読ませたいが、本当に読んでいるか、確認もしたい。その時どうするか。
それで出来たのが、感想文だろう。とすると、もともと疑いから出たモノ。
読書感想文という宿題は、先生が生徒を疑うコトから生まれた宿題。そう思う。
さらに文章を書かせるのだから、先生にとっては、子供たちの文章力向上もはかれると、考えたのだろう。
目的が、本を読んでいるかの確認だとすると、感想文自体で成立していなくても、問題はない。
簡単にいうと、本を読め、読んだ証拠を見せろ。が、感想文となる。
こんなモノなら、大人が感想文など書かないのは、当然。それ自体に価値など無い。
先生は、子供たちを信用していない。そして子供たちはこれにより、イヤで苦しい思いとして、刻みつけられてしまう。
本に罪はない。先生のやり方が、安易なのだろう。その粗末で安易なモノに、他の先生も乗っかっている。
コレが最大の不幸。先生というのは、人マネをしているだけ。自分たちで生み出さない。
最初のヒトが、粗末なモノを出せば、あとのヒトも粗末なまま引きずる。
疑いから入るコト自体、問題。信じなければ・・・。信じるを教えるのが先生の役目。最初から先生失格。
本を読ませたいのであれば、登場人物の気持ちや、行動について、どう思うかの報告文で良い。
自分の考えと違う所や、同じ所。登場人物と心を近づけるようにした方が、本の楽しみ方に近い。
疑う必要はない。本を読めなかった子や、報告文を書けなかった子には、それなりの理由がある。
その理由を聞いて、導くことこそ、先生の務め。先生も子供たちの心に、近づける必要がある。
感想文では、距離があるまま。というよりも、登場人物との距離が広がってしまう危険性もある。
最初が間違うと、そのあともずっと間違い続ける。お粗末な体質。それにより、子供たちは今この時も苦しみ、本を嫌いにさせられている。
夏休みの大罪。それをくり返してしまう、先生達の大罪。改めてもらいたい。
読書感想文は、疑い。登場人物の心に近づき、思ったコトなどを先生に報告する。報告文は、先生との距離も近づける。