えすかれーしょん

じしょ

じしょ

発音で導く。

文字列から、導く。

辞書という、膨大なデータの集合体。発音や、文字列から、探している言葉と一致させる。

知らない言葉がある。発音では分かるが、意味は分からない。

発音を手がかりに、辞書から探す。辞書はその時を待って、膨大な言葉が眠らされている。

意味を確認し、用法などを参考にして、確実にその言葉を捉えていく。

言葉は、モノや概念に付けられた名前。その名前の付け方は、国によっても変わる。

辞書には、そのモノの説明や、概念が記されている。

言葉というのは曖昧で、とくに概念となると、大体掴んでいれば使用に差し支えない。

でもそれをヒトに説明するとなると、どう説明してイイのか、的確な言葉が出てこない。

辞書は、専門家がより的確な言葉を、精製している。もちろん完璧ではない。

膨大な言葉をこなさなくてはならないので、妥協はしている。

とくに概念は、さらに深い意味合いを含んでいる為に、それを捉えないまま、的確に説明出来るハズもない。

それでも専門家が、ある程度時間をかけて、それなりに精製してくれている。

言葉さえ探せば、あとはそれなりの説明が可能になる。それだけでも、頼れる存在。

辞書自体は、専門家の努力の結晶。説明する為に、的確に言葉を探した、塊と言ってイイ。

読んでいて、分からない語が出てきた場合も、辞書を引く。

これも、その文字列の先頭から、探していく。

コンビニで欲しい品物を探すのにも、似ている。ズラリと商品として、言葉が並んでいる。

そうやって辞書から得た言葉は、自分の頭の中で、どうやって構成されているのだろう。

まず、分からない言葉に向き合った時は、とても不愉快に感じる。

自分の今まで生活してきた中から、その言葉を探す。

全く思い浮かばない初対面の言葉と、何度か出逢っているけれども、意味は忘れてしまった言葉とがある。

それを辞書で確認する。見つけて意味を確認する。すると分からないという、不愉快さは消える。

でも、確認した言葉が使ってみたいと思えるモノと、あんまり使わないなと思うモノに別れてしまう。

使ってみたいと思えるモノは、脳の中にも記憶され反芻もされる。

でも、使わないなと思った段階で、何かイヤな感覚と共に、そこに置かれる。

決して、覚えていないのではない。でも反芻はしないし、そこら辺に積まれるだけ。

使うというのは、未来志向。未来に使う為に、今自分の中に溜めておく。

でも使わないのであれば、溜めておく必要はない。おそらく曖昧なまま、放置される。

辞書というのは、今その時に分からない言葉を教え、未来に使う為の言葉を溜めておく道具。

過去からの蓄積と、未来とを繫ぐ、橋のような存在。

せっかくの橋のような存在ではあるのに、その橋を渡るのか、渡らないのか、使用者はハッキリ決めないとイケない。

渡らないなら、渡らないでもイイと思う。どうも、中途半端にやってしまう。

使いもしない言葉を、溜めていても仕方がない。使わないなら、捨てても良い。

言葉は、まず使うか使わないかが、最重要だと思う。それを決めて、使わないならそれでも良いと思う。

辞書はあくまで橋。その世界へ導いてくれる、中継ぎ役と言ってイイ。

その世界に行く覚悟を決めてから、辞書のお世話なになりたい。

辞書は、橋。専門家による精製された説明が、言葉の世界と結んでくれる。考えてみれば、自分の頭の記憶は、中途半端な橋だらけ。まるでお粗末な公共事業。

-えすかれーしょん