ふたしか
また分からなくなってきている。(今日は私事が強いので、読まなくても良いです。)
生き方の答え。
不確かの中での、生き方の答えが、また分からなくなってきている。
自分を不安定においた方が、生み出されるエネルギーは大きい。
それだけに、自分も成長し、自分から出てくるモノも納得出来るほどの、クオリティになっている。
安定しては、鈍る。それは正しいと思う。
でも、そこまでクオリティを求めて、何の意味があるのか。
自分の納得はある。コレは大きい。自分を騙せば、生きている感覚にはなれない。
でも何か違う気がしている。
あまりにも偏りすぎて、大切なモノを見失っている。
今までの生き方は正しかったが、この生き方を続けるのは、正しくはないような気がする。
もっと不確かな中で、それでも生きていくというのが、本来のあり方のように思う。
不確かな中にあって、それを確かなモノにしていくヒトの営み。それは間違っていない。
でも、確かなモノが増えてきたら、また不確かな世界に戻っていく。
不確かだから、成立するいろんな繋がりがある。
確かな答えを探し集めるのは、その繋がりを否定もしてしまう。
ヒトは、不確かだから繫がれる。ヒトになれる。
確かなモノを求めすぎて、ヒトから離れてしまったように思う。
もう一度ヒトの世界に戻らないと、イケない気がする。
確かな答えなど言ってても、本当にヒトの役に立っているかも、分からない。あくまで自己満足。自己納得。
政治学者でも、経済学者でも、脳科学者でも、心理学者でも無いニンゲンのたわごと。
自己納得という手応えはあるが、それが次の世代まで残ってくれるのかは、疑問。
確かな答えを隠してでも、ヒトの世界に入らないと、何も始まらないし、何も残らない。
そんな気がする。
ヒトそれぞれとんでも無い能力を持っている。でも、それを前面に押し出しても、それを自分とは言えない。
確固たる自分がいて、能力はその要素の一つ。普段は鞘にしまって、普通を演じないとギクシャクするだけ。
能力は、必要な時に滲み出るように出していく。あからさまに出せば、相手が受け入れられない。
能力は必要な時まで、しまっておく。それより、確固たる自分を形成させる。
確固たる自分というのは、自分のダメな所。ダメな所、バカな所がないとヒトではないし、楽しめない。
ヒトの芯になる部分は、ダメでバカな所。そして相手のダメでバカな所も認め、楽しめるようにする。
不確かな世界の中で、バカ同士、ダメ同士が、力を合わせてがんばっていく。それが理想のカタチ。
肩肘張って、自分のバカでダメな所を隠すのは、ヒトの生き方と反している。
この世の中は、そこまで完璧なモノを求めていない。完璧を求めるのは幻想。
ヒトが密集する中で生み出された、幻想でしかない。
完璧に押しつぶされて、出来もしないのにそれを追い求める。そんな、マヌケな自分がいる。
生きていくには、いろんな能力がいる。優れた能力があっても、それはその中の一つでしかない。
その一つに縛られて、他が蔑ろになったら、生きられない。
正解がない不確かな世の中で、能力を隠し、普通を演じていく。それでヒトと繫がれる。
不確かは、環境。バカでダメ同士が、楽しみながら、繋がりを持って生きていく。バカから逃げては、見失ってしまう。