さべつのつぎ
知は分ける。
違いを蓄積するのが、脳の役目。
差別の一要素は、分けようとする脳の働き。ならば、差別の次の段階へ。
違いを見つけ出して、整理する。どこが違うのか、それを蓄積する。
知るというのは、違いを見つけるコト。脳が行う知るという仕事のほとんどは、この違いの認識と蓄積。
とすると、違いを見つけるコトが最優先され、下手をするとそれだけになってしまう。
違いだけ見つけておけばイイ、そうなる。
でもそれではマズイ。差別は違いを作りすぎる、アレルギー反応。
違いを作る + 優位に立ちたいが差別を生んでいる。
どちらかというと、優位に立ちたいエゴイズムのウェイトが高いが、違いを作るも一翼を担っている。
片方の翼でも、へし折れば飛べなくなる。差別は成立しない。
なので、差別の次の段階を、示したい。
脳は違いを見つけ、それを知としている。それはずっと続くだろうし、それを全否定する気はない。
でも、一つの方向性として、新たに共通性を見つけるという要素を加えたい。
ヒトは違いを見つけるコトで、沢山の知を得てきた。今度はそれを反転させ、根幹に持っていく作業。
共通性を見つけるコトで、物事の根幹を、認識していく。
たとえば、○と△と□(←四角の文字化け)。マルと三角と四角で、その違いを見つけるのが従来。
それを今度は、○と△と□(←四角の文字化け)で共通性を探していく。
○も△も□(←四角の文字化け)も、平面上に線で構成されている。さらには始点と終点が繋がり、枠を構成する。
枠が出来るコトにより、内側と外側が出来る。
このような、共通性をいろいろと出していく。この共通性も、知的な活動と何も違わない。
ある意味、置いてきぼりにされた概念。違いの次は、共通性を探す。
たとえばまるで違うモノを二つ用意して、共通性を探してみる。
ニワトリとハサミ。この二つで共通性を考える。まず最初に思うのは、全然違う。共通性なんか無いという思い。
それでも考えてみる。両方とも地球上のモノで、原子で出来ている。開いて閉じるという、動きをする場所がある。
考えると非常に難しい。全然違うモノなので、共通性も少ないが、違うアタマの使い方をするので楽しくもある。
突き止められた根幹の部分は、新たな発見をしてくれもする。
別物と思われていたモノでも、系統樹のように共通部分が見いだされていく。
今までバラバラだったモノ達が、繋がっていく。そのイメージは孤独も解消してくれるハズ。
知は続けながら、共通する部分も考える。いろんな組み合わせでの、二つの共通性。
差別の次は、共通性。出来上がる系統樹が、複雑になるか、単純になるか。別の世界の予感があるので、私もいろいろ考えてみよう。