じもん
昨日の補足。
自分の中のが、厳しくってね。
自問するその時、とても厳しく責めたてる自分がいる。
ナニかに責め立てられての行動、このナニかが実は、自分の中に居る自分。
それは得体が知れず、とてつもない恐怖として、密かに存在している。
自分の中にいて、そんな役目を果たしている自分がいるとは、正直驚き。
その厳しい自分が、休息するコトを戒めたり、衝動的に行動するコトにブレーキをかけたりしている。
休息すべき時でも、それを阻害するならば、それはやりすぎで調整しなければイケない。
そもそも、この厳しい自分の大本を形成させたのは、幼少期における親と考えられる。
生まれついて、自分の中に厳しい自分は存在しない。
幼少期は何も分からない。その時厳しく、あれはイケない、これはダメだと叱るのが保護者の存在。
記憶として、保護者の厳しさは残っている。でもいつまでも、親の厳しさに甘えられない。
それで、自分の中にその厳しさを受け継ぐ自分が、作られる。
それは自分であるけれど、得体が知れず、本当に恐怖を感じるほど厳しい。
もちろん、この感覚は保護者の厳しさ、本人の性格にもよるので、個人差はある。
ただ言えるのは、この厳しい自分がいるヒトは、他人にもその厳しさを向けてしまうというコト。
それは時としてやり過ぎになり、人間関係を壊し、自分のカラダをも壊してしまうというコト。
確かに衝動的に動いて大怪我をするコトを、防いでくれてはいる。
でも、カラダや人間関係を壊すほど、それが影響しては行き過ぎ。
とくに、歳を重ねると役割が変わる。サポートにまわるようになる。
この時に、相手に対する厳しさがキツ過ぎると、関係が壊れて先に進まなくなる。
的確な厳しさなら良いが、他人に向けられる厳しさの種類は、苛立ちのようなカタチで現れる。
質として、あまり良くない。サポートする側なら、そこに許しも欲しい。
厳しすぎる自分は、調整して弛める必要がある。
まず、大本にあるのは親の記憶なので、これを書き換えてありがとうでシールする。
記憶の中の親には感謝しながら成仏してもらい、100%自前の厳しさに置き換えていく。
自前なので、意識すれば置き換えられる。
まずは、休息を適度に取るように修正。休息は阻害するべきではない。
そして他人に対しては、極力許す。他人に厳しさを向けたり、苛立ったりしないように。
自分の中にいる、厳しく責め立てる自分は、あくまで衝動的に動いてしまうのを戒めるブレーキ。
その衝動を抑えるという役目だけに、徹するように修正する。
衝動や欲望で動くのは、大人ではない。自分の中の厳しい自分が、大人の行動にしてくれる。
自問は、ブレーキ。恐怖や痛みでないと、ヒトはブレーキがかからない。さっそく自前で、調整する。