なまけ
とても罪悪感を感じる。
休息とどこが違う。
自分が怠けているのではないかと、罪悪感が襲い続ける。
休息は取らなければならない。
分かりやすい休息は、寝るコト。これについては、罪悪感を感じるコトはない。
誰でもしているコトだし、それこそ眠ってしまえば、罪悪感なども忘れ去ってしまう。
問題は、労働中の休息。そして、人生の休息。
キッチリ休息時間が決まっているならば、感じないのかもしれない。
でも、自分で決められる休息だと、罪悪感を感じてしまう。それはどうしてだろう。
何について、罪悪感は感じているのだろう。
みんなが休息をとるのなら、それについて自分だけ責められるというコトはない。
対象はみんなであって、個人には向かない。
どうも、誰かから責められるコトを恐れている。
この誰かというのは、ナニ者だろう。おそらく、特定の人間ではない。
自問の中から出てくる、厳しい責め句。結局自分を責めていたのは、自分自身。
もしくは、子供の頃親などから受けた責め句、それを自分が引き継いでいる。
自分を責めるその恐怖から逃れる為に、カラダや心の状態とは関係無しに、働いてしまう。
ヒトによって、その責めの厳しさは様々だろうが、都会のヒトほどキツく責めているように思う。
この責めが、絶対的に悪だとは思わない。というより、絶対に必要なモノ。
ヒトは、恐怖でなければ、その行動をやめない。恐怖と衝動を天秤にかけ、行動は決まっていく。
もしも恐怖がなければ、衝動のままに動いて、大変なコトになる。
なので、行動のブレーキとして、自分の中で自分を責める存在は、絶対に必要。
ただ、ヒトの体はいつでも万全ではない。必要な休息まで奪うのは、やりすぎ。
更に、自分の責めが厳しいヒトは、他人に対しても厳しくしてしまう。
コレもやり過ぎになって、その場の空気を壊したり、自分を壊したり、人間関係をギクシャクさせてしまう。
調整が必要。自分のカラダや心の状態に合わせて、またその場の必要に合わせての調整。
親や周りから、厳しい責め句を受けたのなら、記憶を修正して少し弛める。
自分を責めていた自分が、やりすぎないように調整する。
ヒトは、歳を重ねる毎に立場も変わる。若い時には必要な厳しさだが、許しを身につけ、サポート役に変化して、厳しさが要らなくなるコトも多い。
関係を壊してしまう厳しさなら、要らない。自分を壊す厳しさも、やりすぎ。
ヒトは怠ける生き物。怠けても良い。ヒトは働く生き物。働いても良い。
休息と怠けるは、まったく同じ。必要なだけ、怠けるコト。
ただこの怠ける、クセになる。働くの間に、こまめに適量、怠けるコト。コレがベストと思う。
あとはカラダと相談。キッチリとした答えはない。自分で決めて、自分で怠ける。
怠けている間は、呼吸により酸素の供給、血液による栄養の供給、つまりエネルギーが補充される。
そして、壊れた部分の補修も行われる。とすれば、絶対に必要というのも当然となる。
怠けは休息。自分を責めすぎているなら弛めて、ゆったりと休息しよう。※今日の説明は駆け足過ぎたかもしれない。また近い将来の、補足を約束。