せいりょく
ないがしろに、される。
ヒトがいなければ、寂れてしまうというのに。
ヒトが集まり、勢力となる。それなのに、その自覚はない。
クラブ活動などでも、新入生が入ってこなければ、衰退していく。
それは無残なモノで、担い手がいない所は、明かりが消えたように暗くなる。
村なども同じで、人が住まなくなると、そこは寂れ、言いようのない不安に包まれる。
どうやら、ヒトは存在するだけで、光っている。自覚は出来ないが、輝きを出している。
集まると強く輝き、ヒトの数が減るほどに、暗く不安になってしまう。
それだけのエネルギーがあるというのに、それを自覚出来ない。
自分にそんなチカラがあるとは、どう考えても思えない。
ヒトが集まるほどに、エネルギーは高まり、すごい勢力となるがそのコトに気づけない。
ヒトが集まって、政府などに抗議しても、拒絶され蔑ろにされてきたから。
そして、生活の競争の中では、個としての自分をさほど大切にはしてくれないから。
まさか自分がそれだけ輝いているなど、自覚出来なくて当然。
さらに何かで集まっている人を見ても、自分との間に線を引いて、気味悪がったり、軽蔑するように見たりしてしまう。
自分と同じ考えであっても、行動するヒトに対して、冷ややかな目で捉えてしまう。
それだけの勢力にも関わらず、政府のみならず、一般のヒトも、蔑ろにしてしまう傾向にある。
コレはどうしてだろう。
大きいのは、参加するコト自体に、慣れていないコト。
村社会や、身分制度の影響で、もともと厳しい線引きされていた。
それはかなり昔のコトだが、社会は地続きで受け継がれるので、意識は残ってしまう。
線引きが強い中で、枠の中なのか外なのか。自分がそこに居て良いのか、悪いのかというのを、とても気にする。
気にしなければ、周りの嘲笑の中、注意され追い出されるという、屈辱を味わうコトになる。
それは強烈で、何もしない方がリスクもなく得だという、気持ちにさせてしまう。
枠に入るコトも、枠から抜けるコトも、恐怖でしかない。
それが参加するコトに、二の足を踏ませている。
まずは恐怖を、取り除かなくてはイケない。誰でも、というアナウンスはいつもしていく。
そしてご一緒にも付ける。誰でもイイし、ご一緒に如何ですかと付け、恐怖を取り除く。
コレで冷ややかな目を向けられるコトも、防げる。引かれていた線と、恐怖はもうない。
もうひとつ、実際参加するとなると、時間と場所に縛られるコトになる。
考えが同じでも、それが理由で参加出来ない場合も多い。
であるならば、バッジやプレートなどを作って、身につけて貰うようにすればいい。
コレは効果絶大で、普段の生活の中で、それを町中の人が見るコトになる。
気づかぬうちに、宣伝にもなり、参加したいと思うヒトに、安心感も与えられる。
その方が日本人にあっているかもしれない。問題があれば、バッジやプレートを外せばイイだけ。
自分がどんな主張を持っているか、いくつか付けて、みんなが街を歩くようになれば、いろいろと変わっていくように思う。
バッジやプレートを付けての勢力は、地味ながら絶大。街で同じバッジを付けている人を見たら、とてもうれしく感じる。
仲間意識も芽生える。
一人ひとりが、光としてよりみんなに、アピールするコトが、可能になる。
勢力は、一人ひとり。バッジやプレートで仲間意識を作っていけば、線引きの悪しき風習からくる恐怖も、消滅出来る。ヒトがヒトになれる。