これでもくらえ
くすぶるもの。
頼らずに、その空間に存在するしかない。
正当な評価がされていないモノ達が、埋もれている。その空間を、コレでも喰らえとばかりに、引き裂くしかない。
モノに対しての、正当な評価。
もっと言えば、正当以上の評価。コレを受けるのは難しい。
そのまま放って置いては、何も進まない。仕掛けないと、ゼロのまま。
モッタイナイと思う。そう思った時、仕掛ける最初の段階が始まる。
次の段階は、ローカルを抜けるコト。ローカルのままでは、正当な評価には繋がらない。
それなりに格が必要。とすると、それなりに広域に影響力を与える存在のチカラが要る。
その時に、出版やラジオ、テレビなど、既存のメディアはかなり有効。そして、彼らを惹き付けるエサとして、賞金を設置する。
格がついて、正当な評価を受けるというのは、それだけで元手がかかる。そこは第一の壁と言える。
さらには根本的な問題として、正当な評価というのは商業ベース。
この商業ベースに乗るコトに対しての、覚悟も要る。
商業ベースは、本質とはズレる。流行、すたりもあり、産物ばかりではなく、時としてその人格や、外見すら商品化しなければイケない。
作品ではなく、商品になるというコトを、覚悟しなければイケない。
作品ならば作者の所有物としての意味合いもあるが、商品は100%お客さんの所有物。
全てお客さんにゆだねられる。その覚悟が必要となる。
その覚悟が出来たら、集まるコト。お金が無く、格をつけられないなら、集まる。
くすぶっている者同士が集まり、そこで商品としての価値を、高めあう。
ほとばしるエネルギー同士をぶつけ合い、更なる段階に進めていく。
それをパフォーマンスにまで、高める。パフォーマンスは、独立した一つの物体のようなモノ。
他に影響されず、その空間を彩るコトが出来る。
これが、パフォーマンスと言えるほどに確定していなければ、アレが要る、コレが要ると他に影響されてしまう。
パフォーマンスまでいけば、それが出来る空間があるだけで足りる。
パフォーマンスは普通ではダメ。不自然な所まで、日常から抜ける必要がある。
その演出は、空間を彩り、立場や身分を越え、景色になる。
不自然なはずが、ちゃんと自然な景色として、存在出来る。
パフォーマンス中は、その中に余計なモノは入れさせない。独占される空間。
それはまさに、コレでも喰らえ。
さらに商品化を進めるとすれば、ショーにまで高める。パフォーマンスだけでは、まだ甘い。
ショートしての華やかな演出も、必要となる。
くすぶっているなら集まって、さらに高め合い、パフォーマンスにし、ショーにまで持っていく。
それは日本が不得意な世界。パフォーマンスもショーもあるが、バラバラなように思う。
もっと言えば、種類も少ない。ヒトが作りあげるあらゆるモノは、ショーに出来る。
商品化の覚悟と、ショーにまで持っていく演出。コレが欲しい。
コレでも喰らえは、存在。やってはイケないコトは少ない。もっともっと。恥ずかしいは置いて、攻める。それがパフォーマンス。