おさき
ついていっては、ダメ。
いつまでたっても、受動的から抜けられなくなる。
何かを学ぶときは、お先に行きたい。先に行けば主体的になる。
何をどうしてイイのか分からないので、まずは見てそれからついて行く。
そのついて行くというのは、学んでいるかぎり、ずっとくり返す。学ぶ場合の当然のスタイル。
であるけれども、ついて行くのは受動的で劣位に立つので、余裕を失う可能性もある。
ついて行く場合の余裕は、自分よりも遅かったりダメだったりする子を探すコト。
もしもその存在がなかったら、余裕が無くなる。ただでさえ遅くて、覚えられないのに、余裕さえない。
それはおぞましいほどの恐怖。そして本来は必要のないモノ。
学びのスタイルを、ほんの少し変える。
何も学んでない状態で、やらせてみる。出来なくて当然、間違っていても良い、遅くても良い。
やってみるコトで、その世界に触れられる。そして出来ないコトが事実として、自分の中に刻まれる。
その段階のあと、教える行為に移る。
そうすると、自分の考えていたモノとの相違を、修正出来る。
出来ないという自分の中での傷が、よりいっそう出来るコトを求める。
先に先にやっているので、余裕があり、優位に立っている。自分でやるので動きは主体的。
そして自分で一通りやる中で、壁にぶつかり、答えを待ち望むストレス状態になっている。
あとは、そこに教えていけば、受け入れ易い状態なので、すんなりと入る。
ついて行くと、受動的で劣位。苦手なジャンルは、いつまでもナニかに頼りたがり、身につかない。
主体的か受動的かでは、圧倒的にナニかが違う。その何かは何だろう。
まず、主体的だと自分の責任。受動的だとダレかの責任。
主体的は圧倒的な自由の中で、自分勝手に進められる。受動的だと、不自由で従うだけ。
結局、自分でしないとイケないと思わせるのが、主体的。誰かがなんとかしてくれるというのが、受動的。
自分でしないとイケないと思うと、不安になり、足りないモノを探し出す。
自分で出来るように、材料を追い求めて、充分な状態を目指す。
受動的は、その場かぎり。誰かがなんとかしてくれると、待つだけ。
どうやら、主体的か受動的かというのは、生き方にも関わってくる。
学びというのは、どうしても受け身になってしまう。それを主体的に、転換しないとイケない。
その為には、お先にお先にやるコト。後から後からでは、受動的に身につきにくい。
間違っても良いし、出来なくても良いし、遅くても良い。一通りやってみるコト。
お先は、主体。苦手なモノほど、先に先に一通りやってから。足りないモノを意識し、自分で探し、身につけられる。